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大人になると身体性を忘れがち?っていう話

対話型アート鑑賞を色んな作品でトライしているのだけれど、先日同じ作品を大人グループと小学生グループとでそれぞれやってみたら、紡ぎだされるイメージが随分と違っていて本当に驚いた。
いやもう本当に。

作品は「鳥獣戯画」
動物たちがそこここで遊びに興じていて、なんとも楽しげで愉快な絵。

国宝 鳥獣戯画 甲巻(部分)

この作品を大人のグループで対話型鑑賞をすると、私調べ(所詮私の経験程度ではn数が少なすぎて何の参考にもならないだろうけれど)では、ちょっと俯瞰して眺める冷静な大人目線になっていることが多いのです。

どういう事かっていうと、動物たちが小グループに分かれているところに着目してそこに集団内の組織構造を見出す人がいたり、動物たちを子どもに見立てて彼らを離れて見守る親の目線になっていたりするのです。外から眺める視点というか、距離が遠い感じ?

一方で、こども達のグループでこの作品を鑑賞した時に何が起こったかというと。。こども達は作品の中に入り込み、身体性や遊ぶ感覚を頼りにこの絵に近づいていることが多いのです。近いなんてもんじゃなくて、すっかり自分事にしちゃってるのです。

例えば、ある子は動物たちのしぐさを真似して何やら納得してから、そこで行われているやり取りを再現し、この泉は人間でいうところの温泉なのだと話してくれたり。
また別の子は、兎が飛び込みをする様子から水深が深い場所がある一方で反対側は水から上がれるような浅瀬になっている事を発見し、この場所はこの動物たちの遊び場で飛び込み台サーキットなのだと結論づけたりしてくれるのです。
だって自分なら、飛び込んだ後は反対側まで泳いでいって、水からあがったら、もういちど走ってもとの飛び込み台に戻るもん。ぜったいに飛び込み台サーキットとしてこの場を使う!と。

こども達はまだまだ自分の感覚に敏感で、身体を使って学んだ経験や知識、自分の感覚を手掛かりにして作品を解釈していきます。自分事から出発するモノの見方ができるからこそ、他のお友達の発言も、自分の発見と等しく大切に受け止めているのだろうなぁ。
そんなこども達の多様な感性にフタをしないであげたいなぁと思うのです。

大人はというと、ついつい観察すること=対象と距離をとり客観的に考える理性が働くからか、観察が知識や概念を見立てて考える頭脳労働になりがちで、そこに身体性とか感覚が入り込む余白がなくなってしまうのかも。
ふと、ケン・ロビンソンのジョークを思い出しました。「大学教授にとって身体は脳を運ぶ乗り物」だと。

会社で合理的な提案や判断を求められることが多くて、お仕事モードであたまカチコチ…なんかちょっとリリースしたい!もしもそんな風に感じてちょっとお疲れぎみなら、自分の身体で感じる感性・感覚を取り入れてみませんか? 子供のころの無邪気さが少し加わって、目の前の世界が、ちょっぴり変わってみえるかも。



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