東京スポーツ新聞社制定2024プロレス大賞についての私的感想
お久しぶりです。もるがなです。元々下半期は年明けに向けての「タメ」と言いますか、夏のリーグ戦の更新ラッシュの反動なのか、更新頻度が落ちがちではあるのですが、今年はちょっとした私事の関係でとにかく私生活がバタバタしており、プロレスの話題も気になった試合を数試合チェックすることのみで手一杯で、noteの更新はおろかTwitterもろくすっぽできておりません。とはいえ、何も発信しないままというのもどうにも収まりが悪いもので、せっかくなのでプロレス大賞についてあれこれ書いていきましょうか。あまり堅苦しい話ではない、単なる雑談めいたものです。本来ならツイートで済ませる程度のものではあるのですが、元来このnoteの役割は「Twitterで書ききれなかった雑文の置き場」であり、そういう意味では本来の使用目的に合致してるとも言えるでしょう。では前置きもそこそこに、プロレス大賞の中で気になった箇所について好き勝手語っていきましょう。
◼️プロレス大賞MVP、ザック・セイバーJr.
いや、これはめでたいですね!と、いうかこれが書くモチベーションになりました。おめでとうございます。プロレス大賞の話題、もとい文句の半分はMVPの人選にあり、毎年色々と言われがちではあるのですが今年は異論も反論も少ないでしょう。何かと対立しがちな新日とノアの双方に彼のヒストリーがあり、それ故に両ファン共に納得の選出であったというのがあまり揉めなかった一番の理由かもしれません。
外国人選手としてのMVP受賞は2002年度のボブ・サップ以来となりますが、語弊を恐れずに言うのであれば、今回のザックの受賞は「外国人プロレスラーとして初の偉業」とまで言ってしまっても差し支えはないでしょう。サップに関してはそもそもがアンタッチャブルかつ規格外の存在でもあり、プロレスと格闘技の話題を席巻し、一般知名度も非常に高く世間に届いたという意味では個人的に受賞に異論はないのですが、当時の時代感覚として振り返ると、やはり話題性の波に押し切られてしまった感は否めませんでしたね。サップ自身、便宜上はプロレスラーの枠組みに入る以上、あの活躍ぶりで受賞させないことは、プロレス村への閉じこもりかつ「逃げ」になるのでは?という卑屈さがあり、かといってボブ・サップをプロレスラーとして評価していいものか?という葛藤は常に付き纏っていたように思います。
それと比較するとザックは世間一般へ届いたとまでは言えないかもしれませんが、ジャンル・プロレスとしてはIWGP奪取よりも難しい外国人のG1優勝というまごうことなきジャパニーズドリームを掴み取った人間であり、それは成り上がりを目指して日本でキャリアアップを図る全ての外国人選手にとっての希望の星にもなったわけです。それによる世界を巻き込んだザックフィーバーのことを思うと今回の受賞はザック以外に考えられず、名実ともに2024年のプロレス界の頂点に立ったとも言えますね。
そうしたグローバル&ボーダレスという今の時代を分かりやすく体現したことに加えて、従来の侵略者めいた外国人王者像を一新する爽やかなベビーフェイスチャンピオンという「新しさ」が彼にあり、それに反して現代プロレスにアジャストしたオールドスクールなファイトスタイルというのも面白く、間違いなくこの受賞は今後のプロレス界の流れに一石を投じたと思います。間違いなく時代の転換点となりましたね。そして何よりも、彼の技術と献身が「正当な形」で評価され、努力が身を結んだことが、今はとにかく嬉しいです。ファンの評価が高く愛されていたとしても、それが団体に、ひいては歴史的に評価されるかどうかはまた別の話なのです。ようやく正当な評価がされた。その一言に尽きるでしょう。
◼️年間最高試合賞、3.20 辻陽太vs後藤洋央紀
MVPと並ぶ目玉の一つであるベストバウトではありますが、今回の予想は非常に難しかったですね。MVPに関しては外国人選手の受賞はあるのか?という不安感や例年の流れに対する不信感はあったにせよ、大方の予想通りではありましたが、その反面ベストバウトとなると頭を悩ませた人は多かったように思います。好勝負、名勝負はそれなりにあれど、全員一致の年間ベストと言えるほどの試合となる決め手がない……そんな感じだったと思います。個人的には意外な結果ではありつつも、色々と興味深くはありましたね。
辻陽太は凱旋帰国後から纏い続けている「次代の大物」という空気感と期待感を壊さないまま一年以上維持し続けてきたことは評価に値する一方で、IWGP戴冠やG1優勝といった頂点に届きそうで届かない大関のポジションのまま、凱旋帰国の後も格や序列そのものはあまり変わっていないことが難点でもあり、そこにもどかしさがあるのも事実です。新世代枠から飛び抜けていて、すでにトップレスラーの一角であるのは周知の事実ではありますが、完全な形でのブレイクスルーを果たしていない点が引っ掛かりますね。個人的には多少の批判があろうが昨年の段階で即IWGP戴冠してても良かったと思いますし、内藤や飯伏の戴冠までの道のりが長かったことを思うと、より早い段階で名実ともにトップに立って欲しいなと強く願ってしまいます。
とはいえ、だから今回の受賞がダメか?と言われるとそういうわけではなく、ベストバウトはやや時期尚早で、本来なら辻のIWGP戴冠やG1優勝のときこそベストバウトにするべきでは?という思いのほうが強いんですよ。NJC優勝は立派なシングル実績ではありつつも、位置付けとしてはあくまで登竜門であり、試合も好勝負ではありつつも年間ベストとまで言い切るには少し抵抗があるのです。個人的に辻でベストバウトを選ぶとしたなら竹下戦がグレードとしても試合内容としても、そして試合の意味合いとしても重かったように思いますしね。
しかしながら、後藤の決勝進出によって後藤優勝から悲願のIWGP戴冠まで見えた中での戦いは初めての苦境と言えましたし、祝福されないかもしれないという絶大なプレッシャーの一戦での勝利は間違いなく辻のベストバウトと言えるでしょう。これは規格外の怪物として鳴り物入りで凱旋を果たした中で、得ることのなかった「出世試合」としての評価であり、それと同時にこれをベストバウトに選定するということは、これから先はそのプレッシャーもこの試合内容も余裕で超えていくことを厳命されたとも思っています。
なので今回のベストバウト受賞はトップ選手としての洗礼、もとい通過儀礼ですね。人によっては今回のベストバウトはインパクト不足に映るかもですが、辻のヒストリー、個人史としての今回の受賞の意味は大きく、ベストバウト受賞ですらこれからの辻からすると「足がかり」に過ぎない。大胆不敵なベストバウト。らしくていいじゃありませんか。そんな感じに受け止めましたかね。
◼️最優秀タッグ賞、斉藤ブラザーズ
いや、これはあまりにも妥当かつ当然すぎて語る余地がありません(笑)一般層への知名度とその浸透もさることながら、斉藤ブラザーズは往年の強豪ガイジンタッグのような雰囲気が素晴らしく、令和にはその異形性による新鮮味とそれに反した親しみやすさを、そしてオールドファンには間違いなく刺さるインパクトがありますし、名タッグであることも含めて全日本プロレスのイメージを体現してるのが最大の強みであるとも思います。日本の団体に名タッグは数あれど、団体のカラーや思想、スタイル含めて団体そのものを代表するタッグとなると真っ先に名前が挙がるでしょうし、彼ら二人は時代を超越しているんですよね。世代はおろか、プロレスファンでなくても構わず、本当の意味で見る人を選ばない。それでいて一目でレスラーとして分かる。プロレスの大事なものは全て斉藤ブラザーズが持っていると言っても過言ではないです。二人同時のMVP受賞すら視野に入ってくるかもしれませんね。
◼️敢闘賞、清宮海斗
プロレス大賞はファンの話題も基本的にMVPとベストバウトに偏りがちで、三賞は影が薄いですよね。その中で2018と2019に続く清宮自身3度目となる敢闘賞は、当時とはまた少し意味合いが違う、当人曰く「めちゃくちゃ悔しい」ビターな受賞なのかもしれません。外敵も含めた通算7度のGHCヘビーの防衛にN-1 VICTORYを王者のままで優勝。実績だけならMVPを取っておかしくない状態の中で、今回ほど「取れない」現実を突きつけられたこともないでしょう。この結果には非常に忸怩たるものがありますね。彼の防衛戦の試合のクオリティや団体内の立ち位置的にMVPかベストバウト以外許されないんですよね。
個人的にMVPは今回はザックがいたから無理としても、敢闘賞でなく殊勲賞を取り、いずれは技能賞も取り、3賞を全て制覇した上で満を持してMVPとベストバウトのW受賞で話題を掻っ攫って欲しいなと強く思いましたね。本来はめでたい受賞のはずが、かえって清宮自身の評価が揺らいでしまうあたり、色々と難しいレスラーなんだなと考え込んでしまいます。「取れないこと」に色々と理由をつける人もいますが、それ自体がある意味ではMVPやベストバウト争いに割って入ってもおかしくないレスラーという評価の裏返しの意味でもあり、そのキャリアや年齢を考えると今の段階でそれを言われるのは異例でもあり、なんというかかなり歪な評価になってるな、とも。
清宮の評価の一つに、マイクやコメントの拙さ、Twitterにおける煽りに対しての返しなどの「発信力のなさ」を指摘する声がありますが、これに関しては一理ありつつも懐疑的ではあるんですよね。個人的には周囲に言われるほど清宮が喋れてないとは思わず、口下手とも思わないんですよね。口達者なほうではないとは思いますが、あれだけ喋れれば十分でしょう。上手い言い回しなんて言わなくてもいいですし、売り言葉に買い言葉で返すのがリングの上での「正しい」作法だとも思いません。ただ、超一流の選手は例外なく底冷えするような「殺し」の言葉は必ず持っているもので、言うことに凄みがあるのも事実です。清宮がまだその領域に達していないことは認めます。だって若いですからね。
ではなぜそういう評価になるのか?これは単純な話で、 本来はそこまで必要性のない事柄でありながらも、当人の性質に合っていないであろう王者像をやらされているor求められているが故の弊害。これに尽きます。
言葉は一つの武器ではあるのですけれど、プロレスは当然それだけではなく、本来ならリング上での言葉ってあくまで副次的かつ添え物に過ぎないんですよね。特に旧来のNOAHはその傾向が強く、その血の濃い小橋や潮崎がいい例ですが、そこまで口達者ではなくても清宮ほどには発信力は求められてなかった気がするのですよ。小橋とか別に喋りが上手かったわけではないのですが、毎回王座戦でベストバウトを叩き出し「これがGHCです」という何の変哲もないシンプルなコメントのみで観客が納得して沸いていたわけで。時代が違うと言ってしまえばそれまでかもしれませんが、本来ならそれで充分なはずであり、清宮海斗はそういう風に悠然と構えた「受動的な王者像」のほうが合っているような気がします。
つまるところは、王者像に対する価値観の違いとしか言いようがないですね。王者というのは団体の最高峰のベルトを巻く頂点の存在である以上、挑戦者は常にそれに対して「挑む側」であり、王者は基本的に構えて受けて立つだけでいいんですよ。それに相応しい相手となるよう話題を作るのは基本的に挑戦する側の務めです。それがなぜか自己発信力が高く、能動的に話題を作るのが素晴らしい王者であるという風潮が根強くなってしまったのが清宮の評価が定まらない一番の要因な気がしますね。もちろん、その王者像も否定はしませんし、そういうタイプの王者も見てて面白くワクワクはするのですが、それはあくまで多様な王者像の中の一例に過ぎないのです。同じ土俵に降りず、上段から構え、そして受けて立つ。よく言われる「品格」というのはそういうものです。
ただ、この「品格」というのが曲者で、それは基本的に清宮の抱える「若さ」「青さ」とは相反するものであり、若者は不完全さを求められるものです。見る側も「まだまだだな」と言いたいわけで、若いチャンピオンはその成長過程にニーズがあるからこそ、本来保つべきはずの「品格」が蔑ろにされがちなんですよね。
そうした清宮の持つ「受けよりのチャンピオン」という昔ながらの伝統的王者に向いているであろう気質や適性が、逆に挑戦者によって弄りがいのある王者として消化され、そこに打ち出したい清宮自身の「若さ」が噛み合わさることで、付き纏う奇妙な低評価と結果として生じてしまった不具合、というのが今の清宮評に対する現時点での個人的な感想になりますかね。本来なら素行と勉強だけで評価されて然るべき優等生の生徒会長が、生徒会長をやるなら文武両道でなくてはダメだと無理に体育をやらされて「もっと走れ」と野次られているような違和感とでも言いましょうか。
ただ、次世代を担う王者として清宮自身に何かしらのわかりやすい指針なり発信なりが大衆から求められているのも事実であり、そうした「能動性」と「話題性」の足りなさこそ旧NOAHの課題の一つであった以上、その負のイメージを一新し、なおかつ清宮を完全無欠のチャンピオンとして鍛えるために足りない部分を補おうとしている団体サイドの考えも理解できるんですよね。だからこそ非常に難しい問題だなと言わざるを得ないわけです。多少の憂いや葛藤があろうが、とにかくキラキラしてて欲しいですよね。今言えるのはそれだけです。敢闘賞で感じる悔しさ。それこそがレベチであることの証ですよ。見守っていきましょう。応援してます。
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久しぶりのnote更新なので今回はここまで。また諸々落ち着いたらプロレスの世界に舞い戻ってきます。ではでは。