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感情はコントロールできるのか?(fan℃ 感情編)

自分と向き合い模索する「fan℃(自分自身のfunやfan)」「WATASHEET」という仕組みを構築しています。「わたしと」というテーマであれこれ綴っていきたいと思います。

対馬の海で黄昏るわたりくん

「バスから降りれ〜!逃げんなよ卑怯もんが〜!」こう当時、63歳の大先輩の議長だった大御所の先輩に罵声を浴びせるのは、10年前の私。当時の森青年は感情がおさえきれなかったのだ。今もなお、思い出す度に、胸の内は穏やかではない時ももちろんある。そして何より思い出すだけで心の中はいつも赤面状態になる。

10年前、何が起きたのかと言うと、活動的なヨソモノ、ワカモノ、バカモノと言われる地域振興を掲げる人たちが個人の私利私欲だと議会で罵られるような出来事が続いていたことに、私の堪忍袋の緒が切れてしまったのだ。もちろん私も個人名でまるで容疑者のように質疑にあげられ続けた。移住者の中には町を出ていってしまった人もいた。

理由はどうあれ、果たして罵声を浴びせてしまった、森青年はどうなったのか。想像通りその噂を聞いた周りの方々は、「やっぱりあいつは、森の息子だ」と話していた。

「やっぱりあいつは、森の息子だ」そう、私の父は熱血で筋道から外れると感情的になってしまう父で、私も幼少期は、こっぴどく激倫に何度も触れたことがあるが、それはそれは、森少年としては恐ろしかったのを覚えている。

そんな父は元町議会議員。議員を6期、内議長を2期つとめた。ちなみに、好きな歌手は長渕剛。幼少期からエンドレスに気付けば、車や家のステレオから耳に入ってくるため、曲名を知らなくても歌えるレベルになったいた。おかげで、就職したころには、上司の年代が、長渕剛世代だったことからモノマネをしつつ歌うことで気に入ってもらえることができたことは、棚からぼたもちだった。

話は戻るが、父は少々伝え方が荒い。すぐ頭に血が上り怒り狂ってしまうこともしばしば。巷ではヤクザ議員だと言う人もいた。そんな父のことを私は間違っていないし、筋も通っているといつも思っている。しかし、伝え方については省みる必要があるかもしれない。

「やっぱりあいつは、森の息子だ」

しかし、世間の目や声はそんな冷ややかな状態。一度、罵声を浴びせてしまったのはあとの祭りで、時すでに遅し。そう、逆に声が通しにくくなっていることを少しずつ、その後、感じていったのは言うまでもない。

過去や他人、感情や生理反応。これらはコントロールできない。と頭の中ではわかっていた。そう、頭の中だけで。

ただ、この罵声を浴びせてしまった出来事が私にとっての経験として大きかった。この時の気づきや失敗が私の実学として学びに変えたのだ。

この思考のターニングポイントでの気づきは、コントロールできないものごとに焦点をあてずにいれるかどうか。コントロールできないものをコントロールしようとするから、さらにコントロールできずに悩み苦しむ。

人間の全行動という心理があるが、前輪駆動の車があるとしてその車を運転していると想像してみる。前進(未来)と後進(過去)であれば前進が運転しやすい。ということは、コントロールしやすいことは、未来。そしてコントロールしにくいことが過去ということになる。

次に、各前輪のタイヤがなんなのか、後輪が何かを考える。まずは前輪から言うと、右前の前輪が「思考」左前の前輪が「行動」だ。そう、思考と行動はコントロールしやすい。

では、後輪のタイヤがなんなのか。まずは、左後ろが「生理反応」そして、右後ろが「感情」だ。そう運転と同じくバックで駐車する際に後輪をコントロールするのが難しい。ということは、生理反応や感情はコントロールできないものだと捉えることで私は気が楽になった。これは選択理論という心理学を用いたものだそう。

当時、コントロールできないことに苛立ち、さらに自分自身をコントロールできなくなることに腹が立っていた。

今は、この選択理論の全行動を学び、実学として経験できたことで、大きく思考や行動に変化があったと思う。焦点をあてるべきものにあて、感情や生理反応は焦点をあてない。そして他人はコントロールしないこととした。

こうやって言葉で理解できても、行動で理解できないことも多かった私も、体感で得ることができた。感情に流されてしまったり、感情にコントロールされてしまっていないか冷静に立ち戻るほんの一瞬が時間があるだけで感情がおさえることができる。

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