民俗誌 女の一生/野本寛一
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784166605347
読了日 2021/02/04
この世に生まれ落ちた時点で何もかもわきまえていない女なので不用意な発言は非常に多く、話していると自分としては脈絡のあるところに話題を飛び火させていくのだが、聞いている側をちんぷんかんぷんにさせてしまうこともあり「この人は何を話しているんだろう?」と思われがちなので、とにかく私はいわゆる男性的な人との会話は向いていないのだろう。
文章を紡ぐのも向いていないようだ。
すまない。
占星術的には太陽星座が双子座で月星座が魚座という私はなんと他人でも自分でも「今このときの自分」がつかめないという特性を持っているので、なるほど何を話しているのか分からなくなる理由もうなずけた。
話すときでもなんでも、ゴールを定めないといけないね。
人としてのゴール。
……死ぬことかな?
本書、民俗誌・女の一生には女性が行う行事や構、集会から、出産、更年期障害にかつての女性たちがどう向き合ってきたのか。
彼女たちを向き合わせ、守り、慈しむために、共同体としてやってきたことは何か、が記してある。
著者いわく、この国ではむかしから女性を差別してきたのではなくて、女性を守るために危険から遠ざける仕組みがあった。
コレが昨今の男女平等思想においては、女性が低い位置に置かれているように思えてしまう原因のひとつとなっている。
本当は女性を守るためのものなのに、勘違いされているのだ。
要約するとこんなことが書かれていて、言いたいことは分からなくもないのだけれど、母性どうこう綴られている時点でやはり思想が男性的だなと言わざるを得なかった。
過去の女性たちは、苦しみながらも日々の生活を送り子育てをしてきたために母性にあふれていた。
ところが最近の女性たちはやれ虐待だやれ未成年での出産だ、やれ女性差別が著しいので結婚出産したくありませんだ、母性が欠落しているのではないか。
とまで厳しくは書いていないのだけれど、似たニュアンスが読み取れる。
母性で子育てが出来るならこの世に虐待なんて言葉はない。
だいたい過去の時代に虐待がなかったかというとそうでもないだろう。
むかしでいえば産んでから虐待するよりは、生まれてきた子を口減らしにするとか捨てるとか、そういった形で減らしてきただけだし、ある種許されてきた面がなくもないはずだ。
それが今の時代は何もかもが許されない。
もちろん虐待どころか口減らしの放置殺人は許されざる悪行だ。
けれども母性のみで子育てできる信仰を持つ男性諸君には信じられないかもしれないが、子育てで追いつめられた女性が然るべき機関に頼ることさえ悪と断ずる風潮が世間には漂っていることをご存知だろうか。
親に預けて息抜きをする、夫に子育てを任せる。
これすら悪と判ずる。
母性が生じれば代わりに女性からは人権を奪ってもいいと考えているのだろうか。
じゃー、私もちょっと遠慮しまーす。
内容に少し踏み込む。
小学生の性における授業はよく男女に別れて行う。
一緒にやらないからお互いに理解しないしできないんだろうな、というこの国の教育制度については私は頭が悪いので反論は何もしないのだけれど、とはいえ各々の体が持つ性の身体機能については、やはり同型の体を持つ先達に教えていただきたいところではある。
過去、明治から昭和一桁代生まれの女性たちはそういったことは学校からは学ばなかった。
代わりに、たとえば姉妹制度のような共同体内部でのしきたりを経て、姉である女性から教えてもらうことがあった。
女性のみの民俗、仕組みである。
ネットサーフィンをしていると、アジアの恵まれない子どもへの募金を募る広告を見る。
「私の娘は生理になると毎月小屋に閉じこめられる」
なんとこの小屋、日本にもあったのだという。
昭和一桁代まではあったというから意外と最近だ。
いわゆる血の穢れを嫌うために女を隔離したのか?
月小屋などと呼ばれる小屋には、生理になった女がおよそ期間中は入っている。
閉じこめられる、に値するのだろうか。
女が嫌がっていればそれは「閉じこめられる」だろうが、文中に出てくる資料だと、女性はそうは思っていないはずだと認識させようとしてくる。
普段は倹約のために薄い味噌汁しか飲めないが、月小屋の中では味噌をたっぷりと使った濃いめの味噌汁を好きなだけ作って飲める。
子どもは夫と義両親に預け、これといって何もしなくていい。
文章だけ読めば女性がいかに優遇されているか、という記述だが、これも受け取り手の問題となってくる。
フェミニズムに傾倒する女性ならば、生理期間だからといって生理痛もない女性が血の穢れだという理由で閉じこめられるのは悪だと論ずるだろう。
実際に生理痛がひどく、月小屋にいるあいだはラクだったという女性の意見には耳を貸さないに違いない。
血の穢れは中国における血盆経の教えによるものらしく、いわく出産や月経で流れた血が土や大地を汚すことから女性は地獄行きという考えらしい。
ちょっと何を言っているのかわからない。
ところが日本にはこの思想が入ってくるまでは、血の穢れとは無縁どころか、尊く思っていた節さえある。
産土神(うぶすながみ)とはある程度耳にした経験がある日本人は少なくないと思うが、ある地方における月小屋は出産にも使用する。
その際、藁を敷いた下の土は産婦が使用したあと交換する。
この土をその地域では「うぶすな」と呼ぶなど、古来の日本では血を穢れとは思っていない様子が垣間見えるのである。
だがしかし一方、やはり聞き取り手にして書き手が男性というだけで、ややうがった見方もできてしまうところが難点でもある。
「ほら、女性は大切にされてきたんですよ」ってね。
とはいえ月小屋にいるあいだは夫が子育てをしていたという点についてはおどろきだった。
昨今の夫婦事情など未婚の私には知りようもないのだが、これも電子マンガやSNSで流れてくる夫婦の実情を描いたマンガだと、いかに夫が子育てをしないか見せつけてくる。
独身女性に結婚=地獄の図式を植えつけてくるのだが、これも結婚嫌悪に加担しているとは既婚者には気づいていないのだろうか。
それはさておくとしても、わりあいむかしの男性は妻が生理のあいだは主体的に子育てをしていたことが分かる。
まあ夫の両親との同居が前提というのはあるが。
さらに、男のつわりについても言及されている。
果たして科学的に存在するのかどうかはさておき、妻のつわりに引き寄せられるかのように、男性もつわりの諸症状を引き起こすという。
男性が吐き気をもよおす様を見た周囲が、あいつの妻がまた妊娠したのだろうと噂するほどには認知されていたという。
すごい、ぜひとも世の男性に装備してほしい進化だが、かといって妻と同程度に苦しむとなると、生物にとっての使命である食料の確保問題がかかわってくるから、やはり取捨選択の末の装備されなかった進化なのかもしれない。
知らんけど。
後半には沖縄の女性だけの祭祀集団について書かれる章がある。
祖先のセジ、つまり霊威を受け継いで祭祀集団に加入するのだ。
一定の年齢になったら入り、また年齢を重ねれば次の組織、また次の組織……と代を重ねる。
やがて70歳となった神女はテーヤク、退役の儀式が行われ、集団から退く。
祭祀集団にて己の霊威を高めきったからである。
組織との別れはさみしいらしい。以降、神事への参加が許されなくなるからだ。
しかし霊威を高めきったという内的な満足感を本人に与えることで、神事、ひいては労働からの引退にもつなげていく機会の与え方はすばらしい。
いつまでも若いつもりで運転免許証を返納せずに、己の衰えを自覚せずに人生の最期を人殺しで飾るよりなんと立派なことだろう。
はたまた自分がいつまでも世界の中心、自分の考える常識のまま世間が動いていると思い込み、間違いを指摘されてもキレれば周りが諦めとともに引いていく様を己の勝利と勘違いして陶酔する様と、比較はよろしくないとは分かっていても比べずにはいられない。
後進に力を高めさせつつ、自らも若輩者から学ぶべきことを学ぶ。
お互いを敬いあい、若輩者が一端の大人になった姿を目の当りにしたところで自らは席を譲る。
自分たちが先達を支えていたように、今度は支えられる番になったのかと自覚することを衰えと受け取り、いつまでも現役とあがくわけにはいかないだろう。
世間は進む。世界も進む。時代が進んでいるのだから当然だ。
己の常識も己の体同様、古びていく事実はあくまで受け入れる必要がある。
その都度、新たな事実を受け入れる心の余裕がある者こそ真の大人であり、美しく年齢を積み重ねた者ではないのだろうか。
本書は女性が女性であることを受け入れる初潮について先達から学ぶことから、嫁となり、やがて姑となって若い者に世代を譲る様子を民俗学的な視点から語っている。
こと女、となると、では、男性にもあるのだろうかと素朴な疑問が湧く。
もしや現在、世間を賑わせているご高齢男性については、己の席を譲る民俗学的な風潮といったものが存在しなかったゆえに見苦しく喘いでいるように見えるのだろうか。
うーん。
女でよかった!
2月の生理痛に耐えながらの感想文。
追記2023/08/01
過去に読書レビューサイト『シミルボン』にてピックアップされた記事です。