2021.04.03 名前を呼ばれる
今年に入ってから(三四郎のラジオ1本に集中して)ネタ投稿を再開した。去年の下半期 ※ にためにためたネタをちょっとずつ消化している。
今週、久しぶりにネタが採用された。これで改めてハガキ職人だと胸を張って言える。
バイト終わりでバスターミナルに並んでる時、一瞬聞き逃したけど「あれ? 今俺の名前を呼ばなかった?」と思った。疲れてたから分からなかった。やっぱいいね、自分のネタで芸人さんが笑ってくれるのって。再確認できた。
「俺の名前を呼ばなかった?」という書き方をしたけど、これってハガキ職人あるあるだよね。
本当は名前を「読み上げる」が正しい表現なんだけど、ハガキ職人にとってはもう「呼ばれる」に等しいんだよね。
イヤホンで耳を塞いで、俺と三四郎が1対1のような感覚になる。外界との遮断。そこで自分の名前が読み上げられたら、それはもう呼んでるのと等しいぐらいの嬉しさなのよ。
※ 去年の下半期に何を考えていたかというと、こちらのエッセイを。
今月に入ってから、さらにネタを送る番組を増やした。もうちょっと本気でハガキ職人に命を燃やさないとな、と思うことがあったのだ。
「名前を呼んでくれる」という感覚、ハガキ職人の方々には共感してくれると思う。この気持ちをなんとか言語化できないか。今日は理屈めいたエッセイになるのかもしれん。
ネタコーナーで命を燃やすハガキ職人は、基本的にラジオを1人で聞いている。芸人がやってるラジオは、夜から深夜~朝方にかけての放送が多い。ないしはradikoでのタイムフリー視聴。
リアルタイムで聞く場合は、深夜にたった1人で起きている感覚になる。みんなが寝静まった真夜中に自分だけが存在している。静かな空間に芸人の喋りだけが聞こえる。
radikoのタイムフリーは、イヤホンをして移動中や出先で聞くことが多い。イヤホンが外界との遮断になる。周囲の喧騒を抑えてラジオの声を目立たせる。ノイズキャンセリング機能があればなおよし。
ハガキ職人は、たった1人・自分だけの世界という感覚が強いのだ。
そしてその感覚は、ハガキ職人のリアルな生活とも似通っている部分もある。それは例えば友達が少ないだとか、働いていないだとか、1人の時間が好きだとか。
こないだザ・マミィの林田さんがネズミの咆哮で言ってたな。イベントで有名ハガキ職人の話を聞く機会があったが、そういう人は無職が多いんだとか。時間が有り余ってるからネタを考える余裕があるようだ(「#83 しんぷる内藤密着 後日談」にて)。
ハガキ職人せきしろさんの自伝『1990年、何もないと思っていた私にハガキがあった』でも、そういう状況だと書いてあった。上京したけど誰も知り合いがいなくて、孤独な中でラジオを聞いてたとのこと。
俺は個人的に、遠隔授業で大学に行く機会が激減したから孤独を感じることもある。だからラジオネームを呼ばれた時と、ゼミで仲良くやれてる時の多幸感ったらありゃしない。
その生活を苦しいと思う人もいれば、自分に合ってると思う人もいるだろう。ただやっぱりみんな、心のどこかに寂しさを抱えているのかも。
そんな時に名前を呼んでくれるのがラジオ。ネタのコーナーで読まれたとなれば、加えてお笑いのセンスを認めてくれることとなる。
存在と能力の承認なのだ。自分のことを見てくれる人がいる。自分はこの社会に存在している。自分にはプロの芸人さんを笑わせる力がある。他人や社会との接点があれば、自分の居場所があるという感覚にもつながるんじゃないかな。
パーソナリティーからしたら普通にメールに書かれてあるラジオネームを読んだだけなのに、ハガキ職人にとっては特別な何かを感じ取るのだろう。
こんなこと言ってしまえば元も子もないのだけど「呼ばれる」という感覚は、本当は間違いなのだ。街中で出くわした友達とかに「呼ばれる」という本来の使い方とは違っている。だってラジオ越しなのだから。
そこに使い方が正しいか違うかなんてメタな目線は必要ない。自分が高揚感を得ることができればそれでいい。大切なのは厳密な評価基準ではなく、自分で自分のことを認める力、自己肯定力なのだ。やっぱ孤独だと卑屈になっちゃうからね。
そもそも日頃からネタだのボケだの、そんなことばっか考えてるくせに評価基準だけ正しいことを追求するなんておかしいよね。
最後に、オードリーのオールナイトニッポン2019年9月28日の放送での、若林さんの言葉を引用する。
「興奮だけを信じなさい」
(実際は、奥さんをハードめにイジられてどこか興奮を覚え戸惑う春日さんに向けての一言ではあるが)