2018.10.28 激イタ大喜利高校生・前編
あぶよしさん ※1 のラジオの今月のテーマメールが「誰にも言えない話」だったから、クラスのAとK ※2 の悪口を純度100%で送った。そしたら今月届いたメールが俺1人だけだった。
あぶよしさは俺のメールに「そういうんじゃないんだよなぁ」というリアクションだった。そりゃこれ1通だけだったらそう思うよなぁと思った。何通かあるうちの1通だったら色物枠として見てくれるだろうけど、これ1通はムリよ。
Aはクラスで我が物顔をしているのだが、別に部活で活躍していたという話も聞かないし、かといって勉強ができるわけでもない。才能もないくせにクラスの1軍顔をしているのが納得いかないのだ。
Aがイケメンなり運動神経抜群なり、そういうのがあったらスクールカーストで「こっちが負けてるんだ」で納得もできるけど、相手が相手なだけに「俺と同じ程度じゃんか」と腹が立つ。
そういうことからメールに「僕が得意としている大喜利でボコボコにしてやりたい」と怒りに任せて書いたところ、あぶよしさんが「そんなに得意だって言うんなら俺と勝負せぇへん?」と言った。
ちょっと意味が分からない。でもまぁやっておくか。負けるのは怖いけど、よくよく考えたら勝っても負けてもどっちでもいいんだと思った。
勝ったら自分に自信がつくし、負けても自分のうぬぼれ具合に気付ける。「もう二度と大喜利が得意だなんて言いません」と、自分を戒めることができる。うぬぼれというのは物凄くこっぱずかしいものだから。そんなこんなで、受けて立ちますというメールを送った。
じゃああぶよしさんはあぶよしさんで大喜利ができるのかというと、かつてラジオの大喜利回で「思わず二度見した七夕の願い事は?」というお題に対して「また5人で活動できますように」※3 としか思いつかなかったらしい。1週間考えた上で。
そういうヤツに負けたくないんだけど。こちとらハガキ職人2年半だぞ。そしてダイナマイト関西のTwitter大喜利で何回ストレートでマイナスを取ったことか ※4。
※1 YouTubeとニコニコ動画でネットラジオを配信している人。俺が毎週聞いてるラジオのうちの1つ。
※2 Aはああいうヤツで、Kは俺のことを無視していた女子。Kの話もいつか書けたらなぁって。
※3 時代的に、SMAPのことかと思われる。
※4 「ダイナマイト関西」という大喜利ライブがある。そのXのアカウントで、お題をポストしてリプライで回答を募集するというネット大喜利をやっており、面白い回答には「マイナス!」と返信される。
これは実際のライブが1対1で大喜利試合をして、持ち点5点の減点方式で勝敗を決めることに由来する。面白い回答をしたら相手を1点マイナスできて、相手を0点にさせたら勝ちとなる。
「こちとらハガキ職人2年半だぞ」、自分で自分の日記を見返して恥ずかしくなる。なんでこんな黒歴史をさらけ出せるのかと言うと、このnoteを誰かが見てくれているという実感が無いからだ。何本投稿しても反応なんか雀の涙だ。
激イタ大喜利高校生である。俺は情けないよ。もっと慎ましいタイプのハガキ職人になってると思ってたんだよ。コーナーにはメールを送るけどふつおたは一切送らないような、口数少ないストロングスタイルのハガキ職人が理想だった。
減らず口叩きやがって。迂闊に口を開くとこんなことになるんだから、コーナーに徹して自我を抑えておかないといけないんだよ。多分いつまで経ってもイタいことには変わりないと思う。
別にふつおた系のメールをもう送ってないこともないんだけど、定期的にポカをやらかすことがある。ウケを狙ったり、自分の信念に沿ったりした結果、テーマとはズレてしまうことがある。
何で高校生の時の俺はこんなことになったのか。5年経って読み返してみると、自分のことをコンプレックスの塊だなぁって思う。
2年半ハガキ職人やって、読まれる枚数もちゃんと重ねてきた。こないだnoteに書いたように、関係のない不倫芸能人の悪口を日記に書くこともなくなった。じゃあなんでクラスメイトにはこんなにも妬み嫉みの感情が湧いてくるんだ?
それはもちろんAにもKにも心無い言動で傷つけられたことがあったからというのもあるけど、自分の生き方にまだ情熱を捧げられていなかったのではないかと思う。
「自分はネタメールでプロの芸人さんを笑わせられている、それでいい」という肚のくくり方ができていなかった。
それは高校生という外的要因も少なからず影響している。大学受験や将来のキャリアを見通して勉強に時間を割かないといけなかったし、「会社の同僚」とはまた違った人間関係が重要視される、学校という名の閉鎖的な社会が関係していた。
会社だったら利益という同じ目的のために黙って働いてればいいんだけど、学生なんて目的も未来もやる気もバラバラだし、それなのに何故かいっちょまえにみんな仲良くお友達付き合いが求められる。その上まだ幼い学生は家と学校を往復するだけの日々。力不足が故に、どうしても世界は狭いと思ってしまう。
勤め先の人間なんか「勤め先の人間」としか思ってない。それ以上でもそれ以下でもない。「もしもクラスメイトだったら鼻についてただろうなぁ」と思わされる人はいるが、ここは学校じゃないんです、友達を作りに来たわけじゃないんです。あんなんただ近くをうろついてるだけの肉人形だよ(きっと俺のことも同じように思われている)。
ただ近くにいるだけの人間なんか重要視しなくなったがために、行き場を失った「興味の矢印」を、他人から自分に向けられる余裕が出てきた。これは学生の頃じゃできなかったことだと思う。もちろんずっと向けられるわけでもないんだけど。
ではこの大喜利対決に勝ったのかどうか、そして俺は本当に大喜利が得意なのかどうか。それはまた後編で。