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2022.01.13 私小説ならぬ私マンガの強さ『僕の小規模な失敗』

『僕の小規模な失敗』を読んだ。福満さん ※1 の工業高校時代~結婚までの話。なんか身に染みることが多かった。特に今の妻と知り合った頃の葛藤のシーンとか。

金髪とかピアス、カップルのことをこれまで散々バカにしてきたが、いざ女の子と知り合ったらめちゃくちゃ付き合いたくてセックスだってしたい。これまでの理屈は自分を守るための術でしかなくて、本当はずっと寂しかったんだと気付いてしまい大泣きするシーンがあった。こっちまで泣いてしまいそうだった。

思い当たるフシがある。このマンガを知った中3の頃、俺はまだ彼女が欲しいということを認めきれていなかった。認めて肩の荷を下ろしたのは高1のクリスマスだった ※2。中3真っ只中の時に読んでたら本当に泣いていたのかもしれない。

あと福満さんが事あるごとに「僕が今こんなことをしてる間にも、彼氏彼女がいる人はセックスしてるということか」と思っているのを見て、これまた思い出したことがある。

中3の体育祭のフォークダンスで隣の女子が終始、手をつなぐことを拒否してきた ※3。あの日の帰り道、アパートや一軒家を見る度に「あの建物の中にセックスしてる人がいっぱいいるんだなぁ…」とか思ってた。あの日が人生で一番荒んでいたはず。あの日の、世界からの疎外感は本当に息苦しかった。

福満さんのマンガの描き方で個人的に感情移入するところがある。福満さんはモブキャラをしっかり描き込む。人混み・通行人・満員電車・大学・飲み会…。どんなに小さいコマでも顔が描かれている。

すれ違う人々全員が俺のことを見ているという感覚の強い人で、世の中にはめちゃくちゃ人がいる、どうしてもこのことを気にせずにはいられない、気にしなければいいなんてことは綺麗事だということを表しているのだろう。

気にしてしまうということには共感できるし、そういうマンガがあるということが嬉しかった。みんながみんな、強くモテモテに生きていけるわけじゃないから、このマンガには根強い人気があるのだろう。


※1 東京の端っこに住んでいる漫画家。自分の人生を洗いざらい吐き出す、私小説ならぬ「私マンガ」シリーズを長らく続けている。現在は『妻と僕の小規模な育児』が連載されており「このマンガがすごい!2021オトコ編」にて20位にランクインした。

※2 若さ、とも言えないくらいの、幼さが故のトガりで自分を守っていた日々。そしてその牙城が崩壊したことから逃げなかった日の日記。

※3 フォークダンスで手をつなぐのを拒否された悲しみに対して、たかが15年しか生きてない自分はあまりにも無力だった。そして無力だったのは自分だけでなく、相手の女子も同じだったのだ。


もともとこのマンガを知った中3当時の自分は、モテなくてフラストレーションに満ちたそんな自分を肯定してくれるマンガだと認識していた覚えがある。最終的には福満さんが結婚するというハッピーエンドだったから、いつかは自分にも素敵なカノジョが…なんてことを思ってた。

なんかのまとめサイトで作中のワンシーンが載っていた。大学に進学するもののカリキュラムの仕組みについていけず、友達ができることもなく、次第に講義にも出ることができなくなっていった。

大学敷地内に行くものの講義室には入れず、用途不明の薄暗くて誰もいない空間で本を読み1日が終わる。そのシーンが強烈なインパクトを残した。サムネイルの表紙のように、階段に腰かけて何かしらを読んでいるという、寂しさと悲しさをまとった表情が印象的だった。

生きづらさを抱えているのはあなただけじゃない、決しておかしいことではない、ここに味方はいる。そういうメッセージが込められているマンガだと思っていた。

そこから月日は流れて、実際に買って読んだのは大学3回生になってのことだった。6年半も空いている。まとめサイトに転載されていたワンシーンだけで満足してんじゃねーよ。早く買えよ。

でもこの6年半は、結果的に必要な期間だったと思う。中3の自分が読んでいたら少し反発したくもなるような内容だった。

オシャレな女性を散々コケにしていたくせに、いざ目の前に現れると付き合いたくて仕方ない。金髪もピアスも可愛くてしょうがない、セックスしたい。心の中で毒づかなければならなかったのは、まだそんな女性と付き合えていない自分を正当化しないと、精神的に崩壊しそうだったから。

自分が一番嫌っている人間像に、自分が一番憧れる側面が含まれている。強さと弱さ、拒否と欲望は表裏一体。こんなこと、15歳の幼い自分がどうやったら受け入れることができるというのか。

横柄な態度・自己正当化・聖域を守る壁・強がり…。誰かがぶっ壊してくれたらどれだけ楽だったろうか。自分じゃない人間の一言が、凍り付いた心を粉々に打ち砕いて、しかもそれが驚くほど腑に落ちて飲み込める。

そんな友達がいるって時点でもうすでにお前は綺麗な人格者だよ。そんな人間は躍起にならなくても恋愛できるだろうし、何より学内で一人ぼっちでいる福満さんに感情移入なんかできない。

誰も何も言ってくれない、耳を傾けても薄っぺらいことしか聞こえてこない、自分も周囲も幼いまま。それでもいつかは大人にならないといけない、いつかは自分の弱さと向き合わなければならない。

でも自分の力だけでは足りない。自分と向き合うためには自分以外の言葉が必要になる。みんな必死になってその言葉を探す。それは誰が言ってくれるものだろうか。

「指導」という名目でいつも近くにいる先生だろうか。自分の手駒として思い通りに動かすのに必死な親だろうか。100万円のエレキギターを鳴らすミュージシャンによる音楽? 自分の物語さえ靄にかかってる中で渡される小説? 莫大な富を築いた資産家による講演? 現実を無視した禁欲ばかり掲げる宗教?

強者が弱者に寄り添おうとする、なんて浅はかな欲望だろうか。金より性より腕力より、救いたい・導きたいという優越感の方がはしたない欲求だ。だからこそこんな俺に、誰にメッセージを伝えるでもない、ただ自分の恥部の恥部まで全て晒しただけの「私マンガ」が刺さったのだろう。

自分の情けないところを、上手くいかなかったところを、崩壊していったところを、包み隠さず描き殴る。だからといって何者かになれたのかと言われれば、何者かになれたわけでもない。それでもそんな自分のまま、そんな日々が続く。読者に伝えたいことは特にない。

そんな態度からしか人は学べないのだと思う。誰かに「こうした方がいいに決まってる」と干渉されたところで、最後に納得して行動に落とし込むのは自分の仕事だから。だったらいっそのこと「俺はこう生きた、あなたはどうする? 考えてみるのもいいと思うよ」という謙虚な姿勢の方がカッコいい。

執筆当時で福満さんはまだ生きづらさや自分探しの最中にいると思う。というか今だってそんな生活のままじゃないだろうか。でもそんな苦しみの中にいるからこそ、読み手にその衝動や涙がひしひしと伝わってくる。誰に向けたものじゃないからこそ、響く言葉だってあるのだと思わされる。

『ルックバック』をゲボ吐きそうなくらいに生々しくした感じだと言えば分かるだろうか。