バルカン半島旅行記① きっかけと準備
普通の高校2年生が、あるとき、ユーゴスラビアに魅せられて、夏休みにバルカン半島を1ヶ月間旅した話。
実は、このような本格的な文章を書くのは初めてです。最初は事実関係をいちいち確認しながら書いていましたが、それではいつまでたっても終わらないということで、自分の知識と記憶の正確さを信じて書いていこうと思います。もし間違い等ありましたら指摘していただけるとありがたいです。よろしくお願いします。
きっかけ
バルカン半島を初めて知ったのは中学生の頃。歴史の授業で「ヨーロッパの火薬庫」として暗記したのが最初だと思う。ワードとしてはかなり強烈で強く印象に残ったが、当時はあまり興味はなかった。
次にバルカン半島が発見されたのは、あるとき、たまたまユーゴスラビアを知ったときだった。
ユーゴスラビア(以下ユーゴという)はかつてヨーロッパに存在していた社会主義国で、「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家」と呼ばれたように多様性に溢れた国だった。また、「非同盟中立」を掲げ、社会主義国でありながらソ連を中心とする東側陣営にはつかず、西側諸国とも良い関係を保ち、「第3世界の国」 として知られていた。経済では独自の自主管理社会主義を導入していた。
しかしユーゴは長く続かなかった。カリスマ的な指導者であるチトーが亡くなると、抑えられていたナショナリズムが爆発し、かの有名なユーゴ紛争が勃発した。泥沼化した内戦はカラーで世界中に報道され、危険なバルカン半島のイメージを人々に植え付けた。
紛争の原因は民族間の対立であった。バルカン半島はその地理的な位置と、歴史的要因から様々な民族と文化が混在するモザイクのような地域で、ユーゴの課題は常に民族問題にあった。ユーゴでは、民族主義的な活動は厳禁とされ、「ユーゴスラビア人」としての帰属意識を持つための教育が施された。今から何十年も前に「国際教育」のようなものが存在していたことに驚きが隠せない。
近年、グローバル化が叫ばれているが、それに逆行するような動きが目立っている。トランプ大統領を始めとする「自国第一主義」の政治家が世界各地に現れている。
ユーゴの前例を知ることで、この世界の先行きを知ることができるのではないか。そう思ったのがバルカン半島への旅のきっかけである。(立派なことを書いてみたが、この理由は後付かもしれない…)
両親の説得
両親を説得するのにはかなりの時間を要した。というのも、両親がまさにユーゴ紛争に関する報道をリアルタイムで見ていた世代であり、バルカン半島には悪いイメージしかなかったからだ。特に母は、留学時代にユーゴから逃げてきたという友人に出会っていた為、余計に反対していた。また、旅行が好きな両親でも、子供を一人で海外に出すというのはなかなか勇気のいることらしかった。それに、旅費の問題もあった。
半年間に渡り、バルカン半島のイメージ改善に努めた。旅費については、バスと電車で1時間かかっていた通学を自転車通学に切り替えることで浮く交通費を使うことを提案した。
熱意に負けて、両親はしぶしぶ許可を出してくれた。
今思えば親として本当に勇気のある決断だったと思う。旅に送り出してくれた両親に感謝したい。
旅の準備
旅の準備で一番ハードだったのは旅行計画だった。(間違いない。)地球の歩き方やインターネット上の情報を参考に1ヶ月間で周遊するルートを考えた。
こんなことを言っていてはきりがないが、バルカン半島を見て回りたかったら1ヶ月では足りない。どこに行ってどこに行かないのか。この場所を見て回るのにどれくらいの時間が必要なのか。マイナーな行き先なだけに情報が少なく、そのあたりを考えるのには苦労した。結局現地に行ってみないとわからないことも多いので、ざっくりとした計画を立てておいて、あとは臨機応変に行動することにした。
1ヶ月間旅するとなると身軽さが大事になってくる。他の旅行者がそうしているように50Lバックパックを用意した。中身は3~4日分の服と、日用品がメインだ。日本の味が恋しくなったときのためにカップラーメンも詰め込んだ。(学校の宿題も全て持っていったが一度もバックパックの底から出ることはなかった…)
前がけのサブザックには現金、パスポート、eチケット等貴重品を鍵をかけて保管した。
短期旅行も長期旅行も案外持ち物は変わらないということが意外な発見だった。
航空券はSkyscannerを使って調べ、ターキッシュエアラインズのイスタンブール経由のフライトに決めた。深夜に成田を発ち、朝に現地に到着できるのが魅力的だった。
ありがとう御座います