守破離
イブキのこの投稿について、自分が考えることを補足していろいろ話してみようと思う。
そもそも「守破離」とは、江戸時代の茶人である川上不白が残した『不白筆記』が出典とされている。
千利休の『利休道歌』にある「規矩作法 守り尽くして破るとも 離るるとても本を忘るな」や、世阿弥の『風姿花伝』にある「序破急」が出典とされることが多いが、それらはよくある間違い。知名度が高い方の言葉が広く伝播してしまうという悲しきさだめ。
それはさておき、守破離とは「型」を重要視する文化の中でしばしば語られる概念の一つで、いかにしてその道を極めることができるのかという、いわば名人に至るまでのプロセスを3つの段階に分けて表現したものだ。
そもそも守破離に関する研究自体が少ないために、その真意がどのようなものであるのかを正確に知ることは困難だが、およそ以下のように表されることが多い。
守…師が教える型を身につけること
破…型を元に独自の型を探していくこと
離…独自の型を元に自らの道を極めること
師の教えを忠実に「守」り、独自の型を探すべく教えを「破」り、いつしか師の元を「離」れる。これが守破離。
このうち最も大切であるとされるのが「守」の部分。そもそも茶道などの芸道は一見すると形式主義的に見えるものだ。一度は聞いたことがある「飲む前に茶碗を回す」といった所作は一種の儀礼的な行為。なぜそんなことをやるのかという理由よりも、まずはその「型」を叩き込むことから茶道は始まる。しかし、それを忠実に守ることこそが芸道においては何よりも大事なのである。このあたりのことは映画『日日是好日』が実に面白く描いているので、ぜひ参照されたい。
さて、ここで冒頭のイブキの投稿に戻ろう。これは大学生選手権の後に投稿したもの。「魅せたいものはわかる、けど同時にそれしか出来なさそうなことも透けて見える」という、優しくも痛烈な批評だ。今やSNSなどですぐに他者の取り組みを目にすることができるため「自分もいち早く上手くならなければ」「次の大会では何位に」と逸る気持ちも無理はない。同じ投稿の中でイブキも「何かに特化しないと目立てない」と言っているように、シーンとしてそういう潮流になっているのは事実だ。
しかし、「守破離」の「守」が出来ていないのに「破」をしようとするあまり、独自の「型」を探そうにも探せない。「これが俺のスタイルだ!」と思っても、本番でミスが目立って「やっぱり違うのかな。もっと違うスタイルに目を向けるべきなのかな。」と意気消沈する。見直すべきは、「これから歩む道」ではなく「これまで歩んできた道」である。つまり、本当に自分は独自の型を探せるほど、型を身につけてきたのかということ。独自の型を探すためには、それまでに身につけてきた「型」を「破」らなければならないわけで、そのためには「型」が無くては始まらない。僧侶の無着成恭氏が過去にこのようなことを話していた。
歌舞伎役者の中村勘三郎氏もこの言葉には感銘を受けたそうだ。果たして、破るほどの「型」を身につけているのか。先に述べた通り、そしてイブキも述べているように「型」を身につけるよりも、何かに特化した方がシーンの中で目立てるし、むしろそうしないと目立ちにくくなっている。とはいえ、目立つことが目的ではないはず。もちろん目立ってナンボの世界ではあるが、目立つかどうかは結果論だ。やってきたことが周りと違っていたから、結果的に目立つという順番。目立つことをしようという意識だけで取り組んでいてはそれこそ「形無し」だし、どこかで限界が来るのも想像に難くない。
したがって、まずは周りとの差(「他とは違うスタイル!」)とかは考えずに、目立たなくていいから愚直に「型」を身につけることに専心することにこそ意識を向けるべきだ。「守破離」の「守」を蔑ろにしてしまっては、その後に到達できる境地など無い。
「守」の段階で気をつけるべきことはいくつかある。「守」は先に述べた通り、「型」を身につけること、つまり師からの教えを忠実に守ることだ。フリースタイルフットボールにおいてはなかなか師という存在を意識することはないかもしれない。もしそういう存在を作るとしたら、スクールに通うか、もしくはJAMに参加したり動画を観たりして勝手に心の中で「俺の師はこの人だ」と決めるかだろう。
前者の場合は、比較的「型」というものを容易に認識することができる。そもそもフリースタイルフットボールにおいて「型」とは一体何なのか、何を身につけることが「型」を身につけることになるのか。ビギナーにとっては分かりにくい。そこで、スクールに通うことで、それを手取り足取り教えてくれる。例えば、フリースタイルフットボールには大きく分けて3つのジャンルに分けられるということ。エアムーブはアラウンドザワールドやレッグオーバーなどの基礎技やSアラMアラなどの核技があること。それぞれ回し方や回す回数で難易度が異なるといった体系的な知識のほか、クロスオーバーのときは体を「く」の字に曲げる、ネックキャッチは顔を前に向けるといった技のコツなどをきっちり教えてくれるだろう。実際、我々フリースタイラーが他の競技を練習しようとする時、けん玉でもコマでもブレイキンでもいいが、そういう背景知識や体系が無いとなかなか取りかかりにくい。スクールはそれを提供してくれるという点で優れている。
勘違いしてはならないのは、スクールで可能になるのはあくまでそういった体系を「認識する」ことであり、それを認識できたからと言って「型」が身につくかどうかは別だ。それは練習をしなければ身につかないことは言うまでも無いだろう。加えて、体系としてジャンルや技についてまとめるというのは、何もスクールに行かなければできないことではない。前作のnote(『スタイルは早めに決めるべきなのか』)でも述べた通り、今や情報はいくらでもある。スクールに通わなくても可能なのであればその方が良い。物事を大局的に捉えて、それぞれがどのように関係し合っているのか、何と何が同じグループとして、あるいは対立するグループとしてまとめられるかなど考えていくうちに「この技はあの技の基礎なのでは?」とか「実はこの技はこの部分こそが肝なのでは?」とか、色々と思索が巡るようになる。おそらくそれが「破」の段階へ通ずる第一歩だ。簡単なことではないが、ぜひ「守」の段階で自分なりに意識してみてほしい。
後者の、自分の中で勝手に決めた師がやっていることを忠実に再現するというのも「型」の構築には大いに役立つ。いわゆる「物真似」だ。「学ぶとは真似ぶ。」なんて言葉は聞き飽きているかもしれないが、実際そうだろうと思う。それに、上手い人の技をコピーすることぐらいしかスタイルが定まる前やオリジナルの技を作り出す前にやれることはなかなか無い。もちろん、先に述べたような大局的な視点を持とうと努めることも忘れてはならない。しかし、それと同時に物真似をするときに意識するべきことがある。
それは「コピーは恥ずかしいことである」と認識することだ。これは決してコピーをするべきでないというわけではない。何度も言うが、最初は「型」も何も無いのだから真似する以外の方法はなかなか無い。それを分かった上であえて言っている。なぜか。フリースタイルフットボールの醍醐味を理解できていないといった内面に関することもあるが、それ以上に、単純にコピー元よりカッコよくないというのが大きい。当然と言えば当然である。そもそも「型」も出来上がっていないのだから、カッコよくできるわけがない。
「その人がやるからカッコいい」というものが世の中にはある。例えば、イチロー氏が言う「努力の大切さ」と一般人が言うそれとでは重みが違う。捉え方次第では権威主義とも捉えられるこのような考え方は個人的には好きではないが、実際のところそうだから仕方がない。「何を言うか」より「誰が言うか」で言葉の響きや重みは変わってくる(したがって、このnoteに重みなど皆無と捉えられることになるが、そこは目を瞑らせてもらう)。これと同じことがフリースタイルフットボールにも起こる。Ko-sukeさんの技をコピーする海外のフリースタイラーがいるが、それを見て「Ko-sukeさん以外がやるとダサいな」と思ってしまうことが少なくない。おそらく、その技を生み出すまでの過程を削ぎ落としてしまっているからだろう。技だけを見てコピーして習得した技のクオリティなど高が知れている。物真似するなら、本家と同じクオリティでできるくらいまでやらないと、周りから見てもしらけてしまう。「ああ、あの人のあの技ね。あの人の方がかっこいいけど。」と思われて終わるのが関の山。本家と同じクオリティでできないのであれば、それはまだ「型」が身についていないことの表れである。それを踏まえて、なお師のモノマネに徹するか、他の「型」にも目を向けるのかは自由だ。ただ、コピーに留まっているうちは恥ずかしいという意識は忘れない方が良い。それに、恥ずかしく思われたくないという、ある種のコンプレックス的な意識は努力の源泉にもなり得る。いち早く「守」の段階をクリアして「破」へと進みたいものである。
念のため補足しておくが、最初は物真似しかやることがなくて、カッコよくできないのは仕方のないこと。それは本人も分かっているし、周りも分かっている。しかし、それにかまけているのは恥ずかしいということだ。例えば、歴の浅いビギナーが大会に出ているのを見て「あれコピーじゃん」と思うということは決して無い。あれは人前でも同じように技を成功させられるかをみんなで見守る、いわば発表会の場。そこにコピーが恥ずかしいだのなんだのという価値観を持ち込むのはナンセンスである。コピーであってもできるようになるのは大きな成長の一つだ。それ自体に価値はある。あくまで「守破離」のプロセスにおける意識レベルの話として、コピーにかまけているのは恥ずかしいことであるという主旨である。
もう一つ意識すべきこととして「すぐに「破」へと進もうとしないこと」がある。前段の最後に「いち早く「破」へと進みたい」と述べたにもかかわらず、今度はすぐに進むなとはどういうことか、と思われるかもしれないが、これこそまさに冒頭で引用したイブキの投稿、そして「形無し」の真意だ。「コピーは恥ずかしい。だから一生懸命に頑張る。」実に素晴らしい心がけである。しかし、その意識がいつしか「できない自分が恥ずかしい。だから、できたことにする。」となってしまう可能性があるのだ。「まだそんなことしかできないの?」と思われているんじゃないかと不安になり「俺だってこれぐらいできるさ」と階段飛ばしで技に取りかかろうとすると、ただでさえ脆弱な「型」を基にしているのだから、砂上の楼閣の如く簡単に崩れ去ってしまう。もちろんいつまでも「守」の段階で、基礎基本ばかりやっているのも考えものだが、それよりもすぐに「破」へと飛び移ろうとすることの方が危ない。それに、大抵の場合、すぐ階段を飛ばしたくなるのは「あいつはもうあんなことができている」といった周りとの比較が原因だ。しかし、周りとの比較など意味がない。これは前々回の記事(『この素晴らしき世界』)に書いたので端折らせてもらう。暇な方はぜひ読んでみてほしい。とにかく、周りとの比較は本当に意味がないし、むしろ有害なのでやめていただきたい。比較の対象とすべきは常に自分自身である。
「自分はまだ「守」の段階。もっと基礎を徹底して「型」を身につけて、いち早く「破」に行かなければ…。でも、自分にはできていないことがたくさんある。だから焦ってはならない…。」この葛藤、せめぎ合いで生まれる心の痛みこそが成長痛なのだ。これを看過して無きものにしてはならない。
この地道で遠回りに思える道のりこそが「守」であり、「破」へ至るまでの過程であり、その先にある「離」に辿り着いて初めて独自のスタイルが確立される。フリースタイルフットボールとはこういうものという「型」の会得。エアー、アッパー、シッティング、それぞれ何が基本にあってどのように応用されて、どうお互いに作用し合うのか、それに必要な練習、意識、姿勢とは何か。「分からない、分からない…あ、なんか分かったかも…いや、違った。」この繰り返しでしかないのだ。この繰り返しの中で「型」を身につけないと、独自のスタイルを模索していくための思考が表層的なもので終わってしまう。それは頭で考えながらも同時に実際にやってみて、分解して、理解して、習得するという身体的な運動を通さないと深まらない。確かに地味でつまらないし役に立つかどうかは短期的には見えにくいが、だからこそ「型」を設定する必要があるのだ。そうして、一通り「型」が身につくと、自分なりのものの見方も同時に洗練される。これは本当にこれが完成系なのか?自分ならもっとカッコよくできるのではないか?と考えられるようにもなる。これが「破」の段階だ。
そう考えると、スタイルとは既にカテゴライズされている所与のものではなく、「型」を身につける不断の取り組みの中から自ずと湧き出てくる成果の一つと言える。「自分はブロックスタイル」「クリッパースタイル」「エアーとブロックを混ぜたスタイル」と、いろいろあるのかもしれないが、別に誰かがそうやってカテゴライズした覚えはない。「型」を分かりやすくするために、体系としてエアーやブロックといったジャンルを設定したに過ぎず、どのフリースタイラーも必ずいずれかのスタイルに収束していくというものではない。Hiro-kさんのスタイルをブロックとかエアーとかのカテゴリーで語れるだろうか。同じようにShoheiやSYUN-YAのスタイルをブロックスタイルとして一括りにできるだろうか。彼らにはそれ以上の何かを感じるに違いない。
したがって、スタイルというものは、既にある何かに決めるものではなく、そのうちに決まっていくものだし、もっと言うとそれは他人が勝手に決めるものとも言えるのかもしれない。むしろ「俺はこのスタイル!」と豪語すればするほど寒いことすらあるだろう。自分は何がかっこいいと感じるのか、あるいは何に心を惹かれるのかといった深層心理の価値観は自分でも認識すべきだろうし、それを基に自分発信でやりたいことをやればいいんだと思うが、それが結果的にどのように表出されて周りに伝わるかは最終的には他者に依存される。だからイブキは「魅せたいものはわかる、けど同時にそれしか出来なさそうなことも透けて見える」と言ったのだ。自分の表現したいことがちゃんと他者にも伝わるように、まずは「守破離」の3段階があることを知り、その中でも「守」にたくさんの時間をかける。その後に何をやるとしてもブレることのない地盤をしっかり固めていきたいものである。