ハイドン作曲「戦時のミサ」ってどんな曲?
第1曲:キリエ
カトリックの通常のミサ曲は歌詞が決まっています。とりあえず、キリエだけ読んでくださいね。10秒で読めます。
ミサ通常文 対訳
https://voce.main.jp/Kyoutuu/missa-text.htm
短い!
主よ、憐れんでください。
キリストよ、憐れんでください。
主よ、憐れんでください。
これしかありませんが、なんか暗そう?ちょっと悲壮感ある?と思ったあなた!その感覚は間違っていません。
しかーし、
実は音楽は全く悲壮感ありません、暗くもありません!
ハイドンの戦時のミサは、非常に穏やかにそして厳かに始まります。
ゆっくりとした歩みの中、静かに始まります。
ファゴットやオーボエが合唱と絡み合いながら幕を開けます。
それはあたかも神が向こうの方からしずしずと歩いてくる様を現わしているようです。
5小節目にその姿が現れたかの如く全体でフォルテを奏します。
ここで早くもティンパニの連打がさく裂し、荘厳さを予感させますが、
それはまだ入場口に現れただけにすぎません。再び歩み始め、10小節目で座るべき玉座に到着します。
音楽は一転し、ソプラノソリストによる愛らしい歌が始まります。
テンポは速くなります。
その旋律はあたかも推しが目の前に現れたため嬉しいと同時に緊張して声が震えているようです。
この震えが、そのまま喜びと興奮の表現に変化し遂に全体で
主よ、憐れんでください(Kyrie eleison)、
を高らかに歌います。
それは、我々には、憐れんでくださいとお願いできる主、神が存在することの幸運と神への確固たる信頼から来る感謝の声なのです。
さて、次にキリストよ、憐れんでくださいの部分が来るはずなんですが、これがなかなか来ない。憐れんでくださいの部分(eleison)を繰り返し歌いますが、主語であるキリスト(Christe)を言いません。
キリストという言葉は重要ですから普通のミサ曲であれば何度も歌うのですが、この曲ではChristeは2回しか歌われません。それに反してKyrie(主よ)は何度も歌うのですが。もしかしてハイドンはアンチ・キリストで主推しだったんでしょうか?勿論そんなことはありません。とても印象に残る感じで強調するのです。
この楽章で一番盛り上がる中間部の終わりのところで出てきます。
是非注意して聞いてみてください。散々Kyrie eleison, elesion、eleisonと聞かされたあとに出てくるChriste。
皆さん気が付くかな?
そして再びソプラノソロが回帰して楽章を閉めます。キリエは文章が少ないので、誰が作曲してもコンパクトになりますが、そのなかで、ティンパニのダイナミックな使用とChristeの特徴的な強調など、一筋縄ではいかないハイドンのミサ曲の素晴らしい始まりです。
第2曲:グローリア
グローリアは邦題が栄光の賛歌となっていることからも分かるように、神を賛美する楽章です。
よ!神さま!
てな感じです。
というわけで誰が書いても基本華やかな曲になります。
勿論ハイドンもそうした曲を書いたわけですが、最初からアクセル全開レッドゾーンに突っ込んでいくような無茶苦茶テンションの高い音楽で開始します。
さらに時々オッレー!と叫びたくなるような伴奏のリズムを伴い、身体が自然と動き出すような躍動感満載です。
そしてちょっと珍しいくらいな頻度で同じ主題が繰り返されますので、興奮のトランス状態になります。
最初のセクションが終わると、テンポは遅くなり、チェロのオブリガート付きバリトンの長いソロが始まります。ここで音楽は少し牧歌的な雰囲気になりますが、「私たちを憐れんでください」の部分は悲壮感が深くなり、Krieの明るさ、Gloria冒頭の大騒ぎとの対比が大きく、人類の苦悩がくっきりを現れます。
もしかして大げさな賛美の向こう側にはこうした嘆願の意図があったのかも。。。
嘆願が終わるとどうして神を賛美するのか、
どうして神にお願いするのか、
その理由を話し始めます。
その音楽は非常に力強く、
また、その歩みは、速くはなるものの、急ぐものではありません。
ここのテンポ設定が実は難しい。
ここで最初のセクションのテンポに戻したい気持ちが強いからです。しかし、実はこの後最初のセクションの音楽戻ってくるので、それよりも遅くなければならないのです。
速くしたいのをグッとがまんして、遂に最後のセクションが戻ってきます。最初に繰り返された主題が帰ってきます。
主題の回帰があるので、テンポは曲頭と同じであることが分かりますが、音楽はダンサブルな雰囲気はそのままに別の音楽に変化していきます。そこでの最大の特徴はアーメンに乗せた音楽が6/8拍子に聞こえることです。実は3/4なので、3拍子に聞こえるべきところですが、ハイドンは6/8拍子を多用し、2拍子と3拍子を並列させるのです。音楽は2拍子になったり3拍子になったり、はたまた同時に両方のリズムが鳴ったりするという錯乱状態(いやこれこそトランス状態か?)のまま、歌詞であるアーメンを繰り返し言ってダンスパーティのような楽章は終わります。
私はこの楽章を宗教音楽という理由ですました演奏をするのはどうだろうと思っています。楽しいは楽しい!これを思いっきり表現する。それこそハイドンらしいのではないでしょうか。
さあ、踊り明かしましょう!
第3曲:クレド
読んでいただくと分かるのですが、Credoはストーリーがあります。
それにあわせて4つの部分に全体が区分されます。
1.信仰告白
2.イエスの死
3.イエスの復活
4.待ち望む
1は前楽章Gloriaのエネルギーをそのまま持ち込んだような覇気に満ちています。神は偉大でイエスはこんなにすごいんだぞ!と
どや顔で歌います。
2は一転してテンポは遅くなり、静かでありながら悲劇的な音楽になります。
主題は上行するものの、すぐに下に落ちてしまう音型の連続です。バスのソリストが主題の上行を歌いだすと、同時にヴァイオリンが下降する溜息のモチーフを奏するなど、影を落としていきます。
また、ここで初めてクラリネットが登場します。
クラリネットっといえば晩年のモーツァルトが好きで愛用していますが、ここで初めてクラリネットを使用したハイドンもなかなかな策士です。モーツァルトのクラリネット協奏曲などから着想を得たのでしょうか?この部分にぴったりです。
さて、音楽はこのセクションの最後の部分である、苦しみを受け、埋葬されましたの歌詞を受け、哀しみのあまり激昂したあと、沈鬱していきます。しかし、この時音楽は葬送行進曲よろしく歩みを止めることがありません。3拍子なので行進曲ではないのですが。そして歩みがとまったところで、イエスの復活が始まります。
3は2の決然とした哀しみの歩みが止まった刹那、突然光が走るかのように始まります。上行する音型は地から天に昇っていく様を表現してるのでしょう。1のような力強い音楽が進行し、4へと変わります。
さて、4はフーガです。クレドの終わりでフーガが来るのが形式・常識でした。そして歌詞がとても短い。
Et vitam venturi seculi, Amen.
これだけです。
意味は,
来るべき世の命を。アーメン。
これだけです。
ベートーベンも彼のミサの中でこの歌詞で同じようにフーガを作ました。
それにしても、歌詞の短さに比して、フーガは長いです。
何といっても待ち望むわけですから、そうそう短くすることも出来ません。
弦楽器特にヴァイオリンはひたすら走り続けます。
歌うほうも音域も高く大変です。
しかし音楽はその苦労に報いるように最後までひたすら高揚し、飛翔していくのです。
第4曲:サンクトゥス→ベネディクトゥス
Sanctusは神を称える箇所なので、通常は華やかなに始まります。
また、Benedictusは対照的に静かで美しく、ソリスト4人によるアンサンブルが聞きものとなりますが、
ここでハイドンはあたかもBenedictusの音楽を先取りしたかのようにたおやかな音調でSanctusを始めます。
アルトのソリストが歌い始め、合唱がそれに続きますが、音楽は多少高揚するものの、本来のSanctusに期待されるような雰囲気にはまだ遠い感じです。随分しみじみと噛みしめるような歌い口だなと思ったのもつかの間、後半の歌詞で突然爆発して、まさにSanctusらしい勢いになります。
ただ、歌詞はすでに後半に入っており、どちらかというと強調されるのは、最後の「オザンナ、いと高きところに」の部分になります。
これ、実は伏線で、あとで回収されます。
さて、オザンナで一旦終わらせて、あらためてBenedictusが始まります。
このBenedictusがまた、え?
というくらい深い悲しみ、まよいに満ちています。
「神の名の下に来る者は幸いである」という歌詞は、普通は神への信頼に基づいて、明るく、そして美しい音楽が当てられますが、ここでハイドンは、それは本当か?疑問を持ちながら自問自答するかのように、何度も同じことを繰り返し念じているかのようです。
ソリスト4人はそれぞれ不安の中、繰り返し唱えます。それは信じなければならないという確信と不安の間を行ったり来たりししているようです。そして最後は力強く信じる気持ちを持って歌い上げ、そのままオザンナに回帰します。しかし、このオザンナは歌詞は同じですが、音楽は別物です。しかしここでハイドンの職人技が炸裂します。
Sanctusにおけるオザンナでは、テノールソリストが歌いだして、その旋律を合唱のソプラノがリピートしますが、ここでは、ソプラノソリストが歌う旋律を合唱のテノールがリピートするというパートの交換を行われているのです。そして音楽そのものは優雅で、Sanctus内のオザンナと見事なコントラストをなしています。
第5曲:Agnus Dei (神の子羊よ)
Agnus Deiは4文しかありませんが、
最後の文、Dona Nobis Pacem(私たちに平和を与えてください)が古来よりとても重要で、この1文だけでセクションが構成されるのが普通です。
ここでもAgnus Deiは2つのセクションで構成されています。
冒頭、穏やかで暖かみのあるなかで、神の子羊よと2回呼びかけます。しかし曲調はMiserere nobis(我らを憐れんでください)から嘆願の色調を帯び、Agnus Deiの呼び声も強くなっていき、最後にDona Nobis Pacemと小さくつぶやくと、突然トランペットの高らかなファンファーレが鳴り、合唱は歓喜の声を上げます。おそらく、あくまでおそらくですが、トランペットは神からの応答があったことを現しているのでしょう。
そのままエンディングになだれ込んでいくかと思いきや、なんと1度ストップ!そしてソリストたちが甘やかな音楽を歌います。それはあたかも、
感動の波がゆつくりと心を満たしていっているようです。そして最後のDona Nobis Pacem が始まります。
どんちゃん騒ぎです。
途中、神を疑った自分を恥じるような感じのする色調を帯びることもありますが、基本はポジティブなエネルギーの塊のような音楽が続きます。
平和が良い。
平和であればこそ、楽しいことが出来る。
平和であればこそ、喜びとともに生きることができる。
歌い、踊ることが出来る。
うまい飯と酒、喜びは平和の中にこそ存在する。
だから、
武器は要らない、
戦争は意味不明だ。
ハイドンの音楽は、そう呼びかけているように、私は感じます。
憎しみは何も生まないと。
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