デュルフレと宗教音楽のフルオケ伴奏と

サントリーホールでデュルフレのレクイエム(フルオケ伴奏版)を聴きました。2023年の9月に同曲のフルオケ伴奏版を指揮しているので、色々と考えながら、見たり聞いたりして考えたこと、感じたことを徒然なるままに。。。

ノットはリベラ・メ以外はすべて合唱を振っていました。ご存知の通り、変拍子の嵐の上に、合唱の歌うラテン語はその拍子に乗っておらず、我が道を行きます。そしてノットは合唱を振ったわけですから、その言葉の抑揚を振ったわけです。そうするとオケのほうは、パッと見ノットの棒が拍節・小節線と関係ないように見える。おそらく演奏経験のない奏者のほうが多いでしょう。でも指揮者は助けてくれません。だいたい、前プロも中プロも難しく、中プロは日本初演のいわゆる現代音楽でノットがどんなに細かく、的確に振っても、オケの人達は大変。それから見ればデュルフレは簡単そうに見える。ましてや現代音楽が得意なノットだと思ったら、この曲ではオケをほとんど振らないというね。そしてこの正しい、したがって合ってるにもかかわらず、ズレているように聞こえるこの曲を自分達だけで演奏しなければならないというのは大変だったはずだが、そこはフランス音楽よろしくインテンポでさ〜っと流れていく音楽作りが良かったのだろう。粘りや溜めなどはほんとんどなし。フレーズの終わりでリタルダンドかけたのは片手で足りるくらいしかなかった。したがってセクション変わり目で、せーのは無し。スパッと切り替わったが、まぁ見事な切り替えで、唐突感は皆無。これぞフランス音楽。オーケストラはお見事でした。
さて、合唱を振り続けたノット。キューも相当でていたが、インテンポで、溜めも何も無いということは、そのキューは出番のキューではあるが、呼吸のためのキューではなかったのである。これは怖い。私も昔はこういう感じだったし、今でもそうすることはあるけれど、暗譜で歌っているので、呼吸キューであれば一緒に呼吸して自信を持ってでれるが、そうではない。呼吸は自分でやらなければならない。そうなると、本当にここで出でいいのか???と思ってもしょうがないだろう。何箇所か入りがいまいち決まらなかった箇所があったのはそのせいだろう。
しかしそうしたことも含めて、合唱も、オケも、とても繊細な音を作っていたし、それで統一感があったのが素晴らしかった。

さて、ノットだが、ソリストにもくどいくらい振っていたのだが、あれは何だったのだろうか。顔の前で振ったわけではないが、ノットは体をソリストの方に完全に向いて振っていた。歌を聴きながらではなく、間違えないようにシッカリ拍子を見せていたように見えた。そこまでしないとだめだったんだろうか?
ちなみに、ピエ・イエズの和音のすべての音が同じ大きさで鳴っていたのが素晴らしかった。あの複雑な和音が均等かつ綺麗に鳴ったのを聴いて、これだ!これだよ!と1人興奮してしまった。
そしてアニュス・ デイで感動的なエンディングを迎えた。泣けました。

上述したようにノットはリベラ・メ以外は合唱を振ったので、リベラ・メはオケを振ったわけだ。この楽章だけ、オケの鳴りは飛び抜けていた。ここまで保持して来た繊細な統一感はここで崩れた。何故だろう???考えたのは、リベラ・メとそれに続くイン・ パラディスムは本来野外で演奏される音楽だからということである。リベラ・メは教会内での式典が終わったあと、墓場で歌うものである。そこの切り替えをノットはしたかったのではないか。それ故ダイナミクスの幅を大きく拡大したのではないか。そしてその流れでイン・パラディスムも解釈したのではないか。そのため音色などは前半とは打って変わって割とゴリゴリしたものになった。
正直、これはどうだろう。この曲はコンサート用の曲であり、実際の葬式で使うために作曲されたわけではない。実際の葬儀であればアニュス・デイとリベラ・メの間には教会の中から出て墓場までの移動時間がある。それなら演奏に変化があっても良いが、連続して演奏するコンサートに於いては、その変化は唐突に感じられた。そのため、時間がゆっくり流れるような、永遠の時間を持つイン・パラディスムが、それまでと分離してしまい、曲の到達点としてではなく、なにか、オマケのようになってしまった感があった。考えすぎだろうか。

とはいえ、そんなことは些細なことである。解釈の違いはあって当たりまえ。それは演奏の評価とは違うのである。演奏は素晴らしかった。デュルフレは後年になってオーケストラの音色は人間的すぎるからという理由で室内オケに変更してしまった。それにより、この曲が、より宗教的なサウンドを獲得したことは分かる。しかし、フルオケ版を昨年指揮し、今年聴いて思ったのは、演奏するのは人、安寧を願うのも人、ということだった。つまり、人間を感じるからこそ、音色の中に人を感じるからこそ、我々はこの曲を我々のための曲として認識出来るのではないか、人の行為だからこそ感銘を受け、演奏したくなり、演奏しなければと思うのではないだろうか。
同じことをラター「グローリア」のフルオケ版を指揮したときにも感じた。音楽が何かを伝えるものであるならば、今の時代に必要なのは、そこに人間を感じさせるものなのではないだろうか。デジタルではなく、血やぬくもりを感じさせるような実体を。

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