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バーンスタイン作曲交響曲第1番「エレミア」を指揮するので旧約聖書のエレミア書を読んでみた。

バーンスタイン作曲交響曲第1番「エレミア」はまず第3楽章のエレミアの哀歌が1939年に作曲されたのち、1942年に現在の形として完成された。でもこんなことはググればすぐわかることなので、旧約聖書のエレミア書と「エレミア」の話をしよう。

まず、「エレミア」は以下の3つの楽章に分かれている。

第1楽章「予言」
第2楽章「冒涜」
第3楽章「哀歌」

され、このタイトルだけだと、予言の内容と何がどう冒涜されたのか分からないので、エレミア書を読んだと言うわけだ。

恐ろしい予言の内容

まず、エレミア書の冒頭、ユダヤの神(何百年か後にイエスが父と呼ぶ、あの神である)がエレミアに話しかけるところから始まります。エレミアの口を通して考えを伝えるので、エルサレムのユダヤ人に私の言葉を伝えろ、というわけである。エレミアはおっかなびっくりしつつも、自分の口から考えたこともない内容のことが流れ出るので、これは主であると確信し、うやうやしく引き受ける。で、その伝えるべき内容というのが驚きだ。

ユダヤの民よ、お前たちは私を裏切ったので、北からやってくる異民族によって、男は剣に倒れ、女子供は飢饉と疫病によって全滅する。トランペットの音が聞こえたら覚悟せよ

という恐ろしいもの。自分の同胞が主の怒りをかって滅亡するという内容に恐怖を感じながらも、とにかく伝えなければならないので、主からの言葉を伝えた。ところ、エレミアを信じる者はおらず、逆に嘘つき呼ばわりされ、死刑判決がでるしまつ。エレミアは主に守られているので殺さることは避けることが出来たのだが、改心しないユダヤ人に対してエレミアに何度も同じような内容を伝えるように繰り返し命令をするのであった。しかし改心する様子はない。

誰が何を冒涜したのか。

これは結論から書けば、ユダヤ人がユダヤの神を冒涜したということになる。

エレミアの言葉は、人にとっては予言かもしれないが、主からすれば最後通牒でしかない。もともと主を裏切って他の神に仕えたのはユダヤ人で、この段階ですでに主を冒涜しているのだが、エレミアの言葉=主の言葉を信じないという冒涜を犯し、あまつさえエレミア=主のメッセンジャーを殺そうとまでしているので、冒涜のオンパレードである。そしてエレミア書においては、本当に北からバビロンの軍隊が来てエルサレムは冒涜ならぬ暴力によって廃墟と化す。エルサレムという街からみれば、これも冒涜のひとつと言えるかもしれないが、バビロンの軍隊は主によって導かれたから来たのだから主にとっては罰ということになるだろう。

哀歌

さて、予言に関しては、複数年に渡り告知されており、その内容も、少しづつ軟化して、民族が全滅ということにはならない。とはいえ、エルサレムはボロボロにされてしまう。エレミアからすれば神の言葉を無視し、自分を殺そうとまでした連中のせいで愛する街が崩壊してしまった。彼はどんな気持ちだっただろうか。怒りも哀しみも、絶望もあっただろう。少なくともバーンスタインはそのように考えたようだ。

以下では上述の内容を基に交響曲について考察する。

第3楽章「哀歌」

第三楽章について考える時に必要かつ重要なのは歌詞と歌詞についた音楽、そして楽譜に書かれた表情記号である。まずは歌詞を見てみよう。

歌詞
エレミアの哀歌より(新共同訳より抜粋)

第1章
1節 なにゆえ、独りで座っているのか、人に溢れていたこの都が。
なにゆえ、やもめとなってしまったのか。
多くの民の女王であったこの都が、国々の姫君であったこの都が、
なにゆえ、奴隷となってしまったのか。

2節 夜もすがら泣き、頬に涙が流れる。彼女を愛した人のだれも、今は慰めを与えない。
友は皆、彼女を欺き、ことごとく敵となった。

3節 貧苦と重い苦役の末にユダは捕囚となって行き、異国の民の中に座り、
憩いは得られず、苦難のはざまに追い詰められてしまった。

8節 エルサレムは罪に罪を重ねた。
なにゆえ、人に溢れていたこの都が独りで座っているのか、やもめに。

第4章
14節 彼らは血に汚れ、目は見えず、街をさまよう。
その衣に触れることはだれにも許されない。
15節 「去れ、汚れた者よ」と人々は叫ぶ、「去れ、去れ、何にも触れるな」と。

第5章
20節 なぜ、いつまでもわたしたちを忘れ、果てしなく見捨てておかれるのですか。
21節 主よ、御もとに立ち帰らせてください。

これはエレミアの哀歌の全体ではなく、バーンスタインが抜粋したものである。

第1章第1節の文章はエルサレムという街を擬人化しているので、座っているとか、やもめになってしまったのかと言っている。興味深いのは、エルサレムは必ず女性として扱われていることである。それは「多くの民の女王であったこの都が」に早速現れているが、その後も続いている。さてここで歌手について言及したい。ソリストはスコアの指定はメゾソプラノである。しかし、エレミアは男性であった。では何故バーンスタインは女性ソリストを選んだのであろうか。

まず、男性であるエレミアを歌うのが女性である理由を考えたい。哀歌はエレミアの言葉であるが、それはエレミアにとどまることなく全ユダヤ人の思い、気持ちでもあるのではないか。男性だけの思いではなく、ユダヤ人全体の気持ちであろうと思う。特に現代にあってはそうだろう。つまり、男性が発した言葉を女性が歌うことでユダヤ人全体の嘆きを現わしたかったのではないかと思う。そしてそこには、女性に擬人化されたエルサレムという街自身の思いもあるのではないか。

さて、冒頭ホルンによって奏され延ばされたEbとGbの短三度音程にのって2小節目にソリストが入る。指示はtragically(悲劇的に)。悲劇を助長するようにフォルテ+アクセントで入ってすぐにdimしてmpへ。

「苦難のはざまに追い詰められてしまった」のところで、次に出てくるのはdarkly(暗く)。ここはメゾソプラノが豊かな声で歌うには音程が低く、バーンスタインはdarklyに合わせてわざとそうしたのだろう。胸声で歌うしかないからだ。
ところで、この直前からコープランドのようなサウンドになる。これが捕虜となったユダヤ人たちの行進のように聞こえるのは気のせいだろうか。

練習番号⑨はハイライトである。指示はsenza ritmo, senza colare(リズム無し、色も無し)。ここで歌手は「なにゆえ、独りで座っているのか、人に溢れていたこの都が」を歌っている。冒頭5連符で始まるのだから、これはゆっくりとそれを分からないように歌えということだろう、そして色も無しである。音量はpp指定であり、絶望で呆然としている様を表している。ところで、ここは弦が音を伸ばしっぱなしにしているので、レチタティーヴォ的な処理をして良いと考えることも可能だろう。ただし、旋律が出だしとよく似ているので、ある種のテンポ感を持ってしまうのだが。

第3楽章についてはもう2つだけ書く。
1つ目はオーケストラが「なにゆえ、独りで座っているのか、人に溢れていたこの都が」の旋律を演奏しているという事実である。練習番号④でフルートソロが、そして練習番号⑮ではTuttiで。上述したように歌手も冒頭の悲劇的とリズム無し、色も無しの2回歌っている。
順番は悲劇的→Fl→無し無し→Tuttiである。
最初と最後が呼応し、中の二つが呼応して、シンメトリーを作っている。曲の構成にも関わってくるのでこれは重要と考える。

もうひとつはこの曲(楽章)の終わり方である。
最初に書いたようにホルンがEb-Gbを伸ばす。最後はE-Gがピアノとクラリネットによって演奏される。半音上がった形だ。よく知られるように、西洋クラシック音楽においては、半音下がることは死を現わしている。その逆であるこれに、生への希望が託されているのだろうか、それともバーンスタインがいうように、ここに希望はなく、これが慰めなのだろうか。

小話:第3楽章の終わりころに下降音型のロマンティックな音楽があります。これはウエストサイドストーリーの音楽を彷彿とさせます。実はウエストサイドストーリーは最初の案ではイーストサイドストーリーというタイトルでユダヤ人とカトリックの衝突を題材にする予定でした。イーストサイドストーリーだったなら、バーンスタインの出自であるユダヤの音楽がもっと使われて、「エレミア」ともっと強く繋がっていたかもしれませんね。

第2楽章「冒涜」

誰が何を冒涜したかはすでに書いた。ここではバーンスタインがどうやってそれを現わしたかについて考察する。

米国の音楽評論家、Dave Hurwitzによれば、ユダヤ人が13歳になったときにバル・ミツバルという儀式があり、そこで成人となるのだが、その過程においてユダヤ教の聖書であるトーラーの読み方を習う。トーラーには音楽が付けられているので、トーラーについた旋律を習うことになる。この旋律を表すものは西洋の5線譜とはまったく違っているのだが、
第2楽章の冒頭の旋律の出だしの部分はアメリカン・ユダヤ人の多くが習う最初の旋律だというのである。

Youtubeリンクを張るので、英語でいける人は是非全体を見てほしい。色々と勉強にある。とりあえず、旋律だけ聞きたいかたは、7分20秒くらいから10秒ほどを見てほしい。

トーラーに付けられた旋律を「冒涜」するわけだから、この旋律に本来はあるトーラーの言葉=神の言葉を冒涜するということである。

さて、ではこの旋律を奏でるのは何か?フルートとクラリネットである。ここで第3楽章練習番号④でで「なにゆえ、独りで座っているのか、人に溢れていたこの都が」の旋律を演奏するのがフルートソロであることを思い出して欲しい。後述するが、第1楽章においてもフルートソロというかモノローグがあり、それは明らかにエレミアの心象を現わしており、フルートがエレミアの心を代表していることは間違いないだろう。してみるとクラリネットはエレミアの地声なのかもしれない。さて、冒頭の旋律はオーボエとファゴットのデュオによって演奏されるが、オーボエは練習番号⑩や⑫において複雑で異様なアクセントが付けられた旋律を吹くの表されているように、恐らくはエレミアを目の敵にする他のユダヤ人と思われる。

もうひとつ言及したいのはホルンとトランペットの役目である。トランペットは本稿の冒頭で書いた通り、エルサレムを攻め落としに来るバビロニア人の攻撃の合図・様子である。練習番号⑦におけるトランペットの連打が機関銃のように鳴り響く様は確かに気を付けるが良いという予言のとおりだ。勿論エレミアの時代に機関銃は無いけれど。

さて、ではホルンはどうか。ホルンは神の力を象徴しているのではないかと思われる。第1楽章冒頭の神々しいソロは勿論、第3楽章もホルンで始まる。そして第2楽章の練習番号⑯においてベルアップの上FFFFで冒頭の旋律を通常より1オクターブ高い音域で演奏するのだが、これをほぼ同じ音型がトランペットによってすぐ後に演奏されるのである。繰り返しになるが、第2楽章冒頭の旋律は神の言葉である。これを非常に高い音域で演奏したあと、敵役でトランペットが演奏するのは、神(ホルン)がバビロニア兵を後押ししているかのようである。何より、ホルンの高音を聞いたあとのトランペットが演奏する同音型のなんと余裕のあることだろうか。

また、練習番号㉙というこの楽章のクライマックでもホルンが勇ましい旋律を演奏するし、楽章の最後にトランペットの機関銃音型が帰ってくるが、それを割って再びのハイ・トーンホルンが入ってきて、最後は低音のFFFによる圧迫感を持って楽章を閉めるのである。以上のホルンの使い方に神の象徴を感じるものである。

第2楽章についてはもう二つだけ話したい。ひとつは、打楽器である。特に練習番号㊲のマラカスを撥にしてティンパニを叩くところである。この箇所は、音調もポジティブであたかもユダヤ人がバビロニア人を倒してしまいそうな雰囲気がある。その後すぐ機関銃が鳴り響いてエンディングになるが、ティンパニ奏者はなんとマラカスを撥にして演奏するように指示があるのだ。さて、これはむなしい空騒ぎを現わしているのかそれとも本当に勝てそうな気がしているワクワク感を現わしているのか。個人的には後者を取りたい。それがあるために、神が介入し最後は強引にユダヤ人たちをひねつぶしたように聞こえるからだ。

もうひとつはこの「冒涜」の楽章に時折現れる暖かい音楽である。この楽章全体は基本戦闘の音楽であり、それはバビロニア人による攻撃であったり、ユダヤ人たちによるエレミアへの攻撃だったりするわけだが、この美しい息の長い旋律は何を現わしているのだろうか。それは殺されそうになったエレミアを助けたユダヤ人たちの心であろうか。私の記憶が正しければエレミアは2回殺されそうになり、2回とも助けられる。エレミア以外のすべてのユダヤ人たちが単なる悪者として描かれていないという点はポイントが高そうである。

第1楽章「予言」

冒頭、弦による8分音符のリズムによる不気味で大きなクレッシェンドは不穏な空気を一気に作る。不吉な言葉が神から発せられるのだから当然と言ったところだが、次に起きるのはホルンによる神々しいソロ。神の登場である。すでに書いたがホルンは神の表象として扱われることが多いのである。

第1楽章の特徴は、すべてではないが殆ど全編にわたり5拍子であることだろう。5拍子は2+3、3+2、そして楽譜には明示されていないが、1+2+2の3種類に分類できる。そのどれもが、法則性もなく流れていく。その様は落ち着かない、迷いのあるエレミアの心情の現れであろう。唯一の例外は練習番号⑨であるが、これは後述する。

冒頭の弦による8分音符は金管・打楽器に引き継がれ、これは平手打ちであろうか。主からのつらい・酷い言葉にエレミアはほほを叩かれるような思いだったであろう。弦が面々と苦しい気持ちを吐露しつづける。

練習番号⑥でスネアのロール(闘いの象徴)を伴奏に、フルートがモノローグを奏でる。今聞いた主の言葉、そして自身の苦しみを振り返るのである。このあと、このつらい言葉を予言として伝えるための決心するまでの心の深い葛藤をへて、上述した練習番号⑨に到着する。

練習番号⑨、14小節間は4拍子になる。主旋律はフルートにより奏される。練習番号⑩の3つ前からファーストバイオリンが後続の楽章でも使われる涙と溜息で出来たような旋律を面々を演奏し、遂にクライマック(練習番号⑫)に到達する。練習番号⑦で使われたコラールのような音型であるが、ここでは、それはなんと野蛮であることだろうか。そして、ここでホルンのベルアップによる咆哮(第2楽章参照)、その脇をぬってトランペットも高らかに歌い上げる!主の現れと敵の象徴の最初の出現がここにある。

この直後練習番号➀(主題と呼ぶべきか?)が再現部よろしく回帰されるが、それは短く、フルートのモノローグも回帰されるが、それは諦めにも似ており、そのまま楽章は力尽きるように消えていく。ここで最後に聞こえるのは、第3楽章と同じく、クラリネットである。クラリネットの下で弦が音を伸ばしているのも同じだ。

最後に冒頭のホルンの音と、最後の諦めのフルートとクラリネットの音を実音で掲載しておく。
ホルン:Eb, Bb, Eb Bb, A, Bb, F, Eb, D,
フルート~クラリネット:E, B A D  A E D
類似性を見るなと言われても困るだろう。
神の言葉を断片的につぶやいたと言うことなのだろうか。

エピローグ

ここまで色々と書いてきたが、基本的にバーンスタインはエレミア書の内容の肝の部分にナラティブを見て、それを曲にしたのだろうと、筆者は考える。3つの楽章は主の予言というよりも罰の言葉で結ばれており、それは旋律を曲全体を通じて使うことで表されている。また、各楽章はこの罰の言葉によって翻弄されたエレミアの心情と実際の闘争を現わしたものであり、その意味を切り離して考えることは難しいであろう。筆者は大学で指揮を学んでいたころに第2楽章だけをある機会に指揮をした。バーンスタインは第2楽章はジャズではない。しかしジャズを知らなければこのような形で作曲しなかったろうと言っている。私は当時この言葉の意味も、この楽章の意味も良く分かっていなかった。そのため、第2楽章を変拍子のかっこいい音楽として指揮してしまった。全体の物語から考えればこんなことをするのはおかしいことが分かる。猛省したいと思う。

さて、バーンスタイン作曲交響曲第1番「エレミア」は1939年から1942年にかけて作曲され、初演は作曲者自身の指揮で1944年にピッツバーグで行われた。評判は非常に高かったようだ。ここまで書いてきた内容で拍手喝采というのは若干理解に苦しむ。勿論音楽は良く書けている。ドラマ性も在り、劇的でもあるので、大昔の話として受け止めるのであれば、拍手喝采というのも理解できないではないのかもしれない。しかし、この曲が提起する問題は、現代社会とは関係ないことなのだろうか。神の怒りの言葉をまともに聞かず、エレミアを嘘つき呼ばわりした古代のユダヤ人たちの姿が、聞きたい話しか聞かない、耳に痛い話を嘘と呼び、それに喝采するソーシャルメディア上の現代の人間の姿に重なって見えるのは、私だけではないと思うのだが。
交響曲第1番「エレミア」は変わることのない人間の本質の一部を的確に捉え、見事に表している。その本質は変わることが無い故に、この曲はこれからも演奏されていくだろう。














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