オネゲルの交響曲第3番「典礼風」ってどんな曲?
2023年9月10日(日)の演奏会で指揮をするにあたり、この名曲についてフェイスブックやツイッターにつらつら書いたことをここにまとめて転載致します。
第1楽章:この楽章は戦争の音楽である。
冒頭低弦楽器が高速で短くニョロニョロと一瞬動く。これだけでこの曲はもしかしてホラー映画ではないかと思わせくれるが、すぐに高音も参加して一気にクレシェンドして、ボン!このボンはなんだろう。ホラー映画に引き付けていうなら恐らく何か殴られたような感じであるが、そうではない。
このボンは、実はfpでpの部分は木管楽器のトリルが奏するのだが、それはあたかも、いつか遠くから見た煙のようだ。そうだ、これは遠くで爆発した何か、それは爆弾かもしれないし、飛行機ビルに突っ込んだのかもしれない。その爆発から立ち上がる煙なのだ。9/11のあの日、大学の丘から見たあの光景だ。
と思うもつかの間、遠くから爆心地を見ていたカメラは一気に現場の方へズームして現地の中に突っ込んでいく。そこは、人々が叫びながら逃げ惑うパニックであり、カオスである。そう、この曲は戦争であり、Dies Irae(第1楽章の副題になっている)なのだ。つまり世界の終末なのだ。
でもどうやって構築されているの?
第1楽章だけに限る話ではないのですが、オネゲルは複数の短いモチーフを使って曲を構築しています。モチーフは短く、また複雑なものではなく、単に上行したり、下降したり、大きい跳躍や狭い音域ですむものだったりします。それは聞けばすぐ覚えられるようなものなので、意識的に聞いておくと曲がどう構築されているのかは割と簡単に理解できると思います。
こうしたモチーフがその組み合わせ、つまり、楽器の組み合わせが変わったり、長い旋律が走っているときにそれを遮るように使われたり、オスティナ―トよろしく繰り返し使われます。
こうしたことの組み合わせの結果できた曲は、カンディンスキー的な激しい抽象性をジョルジュ・ブラックのような絵画にしたような印象を受けます。そうです、あくまでしっかりとしたフォルムがありながらも、そこには激しい情念が渦巻いています。フォルムと情念というあまり相性が良くなさそうな取り合わせが大きな緊張感を生み出します。それは、第3楽章の終わりまで解けることがありません。
最後は副題である「Dies Irae」について
「怒りの日」と訳されるカトリックの典礼文で、昔はレクイエムに使用されていました。モーツァルトやヴェルディの曲がまさにそれです。
さて、この「Dies Irae」ですが、1962年-1965年にかけて行われた第2バチカン公会議において、「歌詞の内容があまりにも最後の審判への不安や恐怖を強調しすぎており、本来のキリスト教の精神から遠い」(Wikiです)と言う理由で、レクイエムから取り除かれました。
そうなんです、「Dies Irae」は最後の審判への不安や恐怖を強調するものなのです。それが理由で世俗曲でも「Dies Irae」は頻繁に使われています。皆さんよくご存じなのはベルリオーズの幻想交響曲でしょう。
そのような「Dies Irae」が副題となっている第1楽章の意味はなんでしょうか。オネゲルは世界大戦を2度経験しています。武器・兵器がどんどん破壊力を増していくのをしっていました。それは原爆まで行きます。人類は自らの手でこの地上を焼き尽くすことが出来るようになりました。3度目の世界大戦があれば、間違いなく、人の手によって「Dies Irae」が起きると考えざるを得なかったのではないでしょうか。そんなものを発明してしまった人類に対する怒り、そして迫りくる「Dies Irae」への恐怖。これは第2次大戦が終わったばかりのオネゲルにとってどれほどの現実感を持って迫ってきたのでしょうか。オネゲルは副題に対して、以下のように言ってます、「この副題を見たときにおこる宗教的感情の表現」だと。彼が表したかった恐怖や怒り、その強さ、大きさにたじろぐばかりです。
第2楽章:この楽章は、神からの応答はないという絶望の音楽である。
第2楽章は緩徐楽章です。
スロームーブメントね。
この楽章は私が「人」と呼んでいるモチーフが出てきます。他にもこの楽章にはモチーフがあるのだけれど、「人」が最重要モチーフです。
理由は1つは、このモチーフと他のモチーフとの絡み合いと、「人」モチーフ同士の絡み合いから、この楽章は複数回クライマックスを形成しようとするのですが、それがうまくいかないことにあります。
もう一つの理由は「人」が第三楽章でも使われ、この曲の最後の閉めになるからです。それについては第3楽章のところで話します。
さて、理由1に戻ります。
盛り上がっては突然盛り上げる前に戻るというのはベートーヴェンの常套句ですが、あれに似ています。また、モチーフの絡み合いでクライマックスを作るのはバッハのフーガ的でもあるし、また、細かいモチーフの変形もブラームスの発展的変奏的とも見られ、ここでオネゲルはいわゆる3大Bを意識しているのだろうと推察します。しかしそうして作られた頂点への道のりは不協和音に満ちており、カオスと言って差し支えないでしょう。
その凝縮されたカオスは遂に不協和の強度が低い不協和に移動することにより完全な解決とは言えない擬似的な解決に至ります。例えてみれば、マラソンを走ってゴールしたものの心臓はしばらくバクバクしたままであり、記録も1位でもなければ自己ベストからも程遠いタイムで苦い思いしか残っていない感じでしょうか。
これが落ち着いた頃に前半聞いた音楽が帰ってきて、提示部が始まっていたのだと気が付かれますが、それよりも、もう一度巨大な盛り上がりを見せ今度こそ!と期待させますが、またまた、そして今度はppへと落ちます。永遠に気分良くはさせてくれませんが、遂に再現部が終わりコーダになります。鳥のモチーフが現れます。平和の象徴です。鳥が「人」の断片と絡み合いながら曲は静かに閉じます。
では上述の構造がどう副題のDe Profundis Clamavi(詩篇130:深き縁より)と関係しているのか見てみましょう。
それにはまず詩篇130全体の詩とその詩の意味を知る必要があります。
ウィキを貼っていきます。
短いから読んでね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A9%A9%E7%AF%87130%E7%AF%87
詩篇130は詩冒頭から第5節まで繰り返し神に懇願しています。しかし第6節で明らかにされるように、神からの応答はありません。そして待ち望むということが繰り返し言われるのです。
何度も盛り上がるのは懇願する姿を、そして不協和な響が切実な思いを表しているといって良いでしょう。
そして、静かでメロディアスなところが希望を持ち神からの応答を待っている姿です。希望を持っているときは何もしない(懇願もしない)のですね。
子供が夕方に空き地で親の帰りを待っているようなインティメートな感じです。
さて、この詩は、ルターの宗教改革から約百年後の1618年から1648年、いわゆる30年戦争の頃によく読まれた詩篇の一つと言われています。それはこの時期に起きた戦争はもとより、ペストなどの病気や飢え死に、更にはそうした状況から起きた集団ヒステリーによる魔女狩りのような悲惨で真っ暗闇の社会状況のなかで、主の救いを待つという内容が多くの人の希望となったからです。
そのことも踏まえた上でこの詩篇を副題にしたのだと思いますが、
実は、この楽章はコーダ部分は詩篇の構造の外にあります。なぜなら鳥が現れるからです。これが神からの返答かどうかはわかりませんが、詩篇130に鳥は出現しません。つまりこの鳥の存在は謎なのです。答え合わせは第3楽章で行われます。
第3楽章:終楽章は「進むべき道はない、だが進まなければならない」という音楽である。ただし、オネゲルが付けた副題は
Dona Nobis Pacem(平和を我らにお与えください)
冒頭からすごいです。オネゲルはこれを馬鹿馬鹿しいものを現わしていると言っています。
この「馬鹿馬鹿しい」主題が超重要主題です。オネゲルは機械化された人間の生というものへの苦々しい思いをここで書いています。蒸気機関で動く巨大な工場で聞こえるようなノイズが沢山聞こえます。人類の進歩とも言える科学技術は核兵器を作り上げ、遂にはDies Iraeを可能にしたことへの怒りと恐怖を第1楽章で表しましたが、第3楽章ではそうした人類の歩みに対して批判しているようです。そして音楽はひたすら機械仕掛けの人間の生、冷徹な、血の通っていない、人間性の不在を感じさせながら続きます。そして遂に音楽は頂点を迎えます。このクライマックスは、第2楽章で神を呼んだオネゲルが、返事をしない神へ向けて絶叫しています。
DONA NOBIS PACEM
DONA NOBIS PACEM
DO----NA----NO----BI----S PA--------CEM!!!!!!!
3度、平和を与えてくれと絶叫します。喉から血を流さんばかりに絶叫するのです。
オネゲルは自筆譜のこの箇所にDona Nobis Pacemと書き込んでいます。
しかし、実際にはただ叫んだわけではありません。実は以下のような相槌が入ります。
DONA NOBIS PACEM
「馬鹿馬鹿しい主題」
DONA NOBIS PACEM
「馬鹿馬鹿しい主題」
DO----NA----NO----BI----S PA--------CEM!!!!!!!
「馬鹿馬鹿しい主題」のリズム。
そうです。どんなに叫んでも、返ってくるのは「馬鹿馬鹿しい主題」なのです。
そして、絶望し一人呆然と立ち尽くすオネゲルの上空に再び鳥が現れます。
この鳥の主題の下で第2楽章の「人」の主題がヴァイオリンソロによって歌われます。
そして若干楽天的な和音と共に曲は閉じます。
以上ということだけなら、良かったのですが、実はそんなことはありません。
オネゲルは気づかれないように恐ろしいものを仕込んでいまたのです。それは鳥と人の伴奏の和声進行が、鳥が現れる直前の馬鹿馬鹿しい主題の和声進行とそっくりなのです。
これをスコアの分析の最中に発見したときには愕然としました。つまり、以下のようなことが同時進行していたのです。
鳥(平和の象徴)
人(我々の象徴)
馬鹿馬鹿しい(愚かな人類の象徴)
つまり、人が馬鹿馬鹿しい営みを超えた時初めて鳥へ到達するという意味なのでしょう。
そしてそれは不可能ではないし、そうしなければならないが、それは今後の課題なのであるということでもあるのです。
この記事を書いたあと、さらに気がついたことがあるので、追記します(9/15/2023)
それはティンパニとピアノパートでした。上述しましたが、3度目のDona Nobis Pacemのあとで、「馬鹿馬鹿しい主題」のリズムのみ演奏されますが、これを演奏するのはティンパニです。音はC#。
ティンパニは次の動き出すのは最後の数小節ですが、C#を6回叩くのを3回行います。このブツブツいうティンパニが何を表しているのでしょうか。それは以下のようなことでしょう。
Do
na
No
bis
Pa
cem
つまり、先程「馬鹿馬鹿しい主題」をやりきったティンパニが今度は平和を祈り始めるのです。
そしてピアノが同じくC#を小さく響かせます。それは教会の鐘を模しているようです。
Dona nobis pacemと教会の鐘とくれば前述した人の象徴モチーフは、アーメンと言っているに違いありません。そうであれば、この3つの教会的要素を最後は3拍子で結び合わせたのも、理解できます。
それこそHoly Trinityであり、
「典礼風」なのです。
Dona Nobis Pacem, Amen
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