私の感覚の証明
今になって、よく考えてみたんだけれど。
学生時代に、私の様々な訴えについて、
「自意識過剰」とか「被害妄想が強い」とか
「悲劇のヒロイン気取りだ」とか言ってきた人間が
それなりにいたんだ。
それで私も「そうなのかな」って思っていた。
でも今考えてみれば違ったじゃないか。
どれも発達障害的特性からくる感覚の過敏さに起因する訴えなわけだから、
私は私の感覚を信じていてよかったのだと証明されたじゃないか。
私はどうしてあの時、ああやって責められなければならなかったのだろう。
それもこれも何もかも、
「誰も正しく理解していなかった」
「誰もそういうものだとわからなかった」
「誰からも助けてもらえなかった」という言葉に収束してしまう。
幼少/児童期、私が何もわからない時、一番気づきやすかったであろう両親に気づいてもらえなかったこと。
青年期、処理しなければいけない情報の多さ故、私がまったく余裕のない状態であったこと。
そういう事実の積み重ね。
14歳の頃にアスペルガー症候群の診断を受けていたにも関わらず、それを「教えてもらえなかった」という事実も、収束する言葉が正しいことを裏付けているというか。
それでも恨めない。
私は恨めない。
皆のことは恨めない。
私が悪いわけではないことを責められたんだとしても、
皆のことは恨めない。
正直、少しだけきつい。
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