海獣のいる海



NHKスペシャル『海獣のいる海 あるトド撃ちの生涯』を観る。88歳で亡くなる直前まで海に出て、漁とトド撃ち漁を生業とした俵静夫の最晩年の記録を通して、自然の姿と人の関わりを描いた優れた映像作品だった。


12歳から生業のために生き物の命を奪い、海と共に暮らし、癌となり自らの病も静かに受け入れてゆく。手術をして命を長らえるよりも、そこには、最期まで漁師として海に出ることを当たり前に選ぶ俵の確固たる生き方があった。画面には、人と自然の地平が地続きであることの説得力で充たされていた。


旅の途中、礼文には19歳の時に一度だけ一週間ほど訪れたことがある。礼文の豊かな美しい海の映像を観て、礼文ではないが、数カ月知床で昆布漁のアルバイトをしていた頃のことを思い出した。同じような顔をした男たちのことを懐かしく思い、今も当時も、自らの顔のひ弱さを恥じるばかりだ。


自然と地続きに暮らすひとの顔。当たり前に海に生きるひとの顔がある。その顔は山に生きるひとにもある。俵の顔は、その暮らしを通して手掴みした哲学者であり観察者としての魅力にもあふれていた。


生命を奪うことを通して、自然と向き合い、自らを問い、生活者としての重みのある顔。何かを目標とするのではなく、その場を受け入れ、没入し生きるひとの刻まれた顔。日本では本当に観ることがなくなってしまった、手触りを生きたひとの顔だった。


「生命を奪って生きてきたのだから、病や死は当たり前のこととして受け入れている。」

「毎日海に行き漁をして、バイクで買い物に行く。年に一回の祭りがあって、漁師の生活などはだいたいそんなものだ。」


作り手の姿勢もそのことに共鳴している。北の海の確かな風景、俵の削ぎ落とされた暮らしと言葉が彫刻刀で彫り出されていくかのような映像だった。説明的ナレーションを排した作りが、この作品に静かな説得力を与えていた。


私たちは装飾されたもので自らを囲い、欲を欲で満たすことしか知らず、様々なものを生み出している気でいる。だが、この作品を通して、自然という容れ物の中にいる小さな存在でしかないことにハッとするのだ。自分自身が虚飾の世界に生きていることを知っているつもりでいたとしても、手掴みの生には、遠く届いていない。


漁の営みのためにトドを殺し、しかしトドに罪がないことの葛藤を持ち続け、死ぬ間際まで海の変化を憂いながら、自らの命を受け入れた、俵静夫という人間を知ることができて、本当によかった。


12月12日(木) 午前0:35〜午前1:25に再放送が放映される。




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