それぞれの空白へ
ひとりの時間が増えてから、ドラマをよく見るようになった。毎季、横並びで新作ドラマを観ていると、脚本や演者の実力がここまで違うのか、と気づくことが多くて面白い。
近いところでは、今年の春ドラマ「アンメット」は傑作だった。医療もの、記憶喪失ものというありがちな姿をまといながらも、脚本に抑制が効いていて、何より役者の演技の息遣いが、物語よりも先に存在しているかのような、ドラマではあまりない繊細さとリアリティに充ちた作品だった。第9話の杉咲花×若葉竜也ふたりによる最後14分の長回しシーンは、ドラマ史に残る場面だと思う。ぜひここの部分だけでも観てほしい。
今季では「海のはじまり」に心掴まれている。生方美久の脚本の繊細さは言うまでもないが、挿し込まれる得田真裕のトラックも切ない。音楽を聞くだけでドラマの世界が立ち上ってくる。役者陣はすべて、演技を感じさせない演技を見せ、脚本もテーマを声高に主張しない強度を保ち、脚本と役者の表面張力によって、彼らの住む世界が、私たちの住む街のどこか片隅にあるような気持ちにさせてくれる。
もちろん話題になった「VIVANT」も全力で楽しんだし、「アンメット」と同じ記憶喪失を鍵にした「くるり」にはきゅんきゅんしたし、「海のはじまり」とテーマが近い部分もある「西園寺さんは家事をしない」のテイストも大好きだ。「不適切にもほどがある」ではクドカン節にも踊らされた。
頭を空っぽにして非現実を楽しむドラマも好きな一方で、繊細なやりとりを身体的に表した作品の説得力に、私はやはり惹かれるのだ。
当たり前のことだが、ドラマや映画は現実とは違って、限定された時間の中でその世界を表現しなければならない。だから多くの作品は説明的(ナレーションや時系列ごとに整理されている)でもあり、シンボリック(現実にはあり得ないひと、あり得ない出来事か起こる)でもあり、様々な仕掛け(謎解き、トリック)を用意して、限られた時間内で空白を埋めて親切に描き切ろうとする。
けれども、その作品では語られない時間のことや、感情の揺らめきのなかで表に出ない僅かな表情、間。要するにドラマや映画では、俯瞰という視点を作り手が演出していて、役者もその視点を先に持って臨むわけだが、その俯瞰(こういう物語ですよとわかる世界)を没入(どういう物語なのかわからない世界)に落とし込める力を持った作品に出会うとうれしくなってしまう。それはもちろん、私たちの日々が没入だからでもあり、その日常の地続きにいる説得力に心が動くのだと思う。
もともと映画は、どうしようもない日常を忘れさせてくれる娯楽の王様だった。映画館は市井のひとたちの人いきれで満ち溢れた、束の間のハレの場だった。ウッディ・アレンの「カイロの紫のバラ」の主人公のように、映画内映画という「非日常への没入」をみんなが願った時代があった。
けれども、俯瞰的な、非現実的な作品に対する今の楽しみ方はもう違う。選択肢は増えた。人いきれという地続きもなくなった。これしかない、という切実さのない非現実は、そのひとの中で消費され、排泄されてしまう。
「海のはじまり」特別編でみせた古川琴音×池松壮亮の演技、その息遣いには、ふたりの生きる日常の、語られない豊かな空白があった。
映画「正欲」の中で、原作とはだいぶ違う部分を差し引いても、東野絢香演じる八重子の、教室での自己開示のシーンは、本当に美しかった。
描かれた彼らは「日常」だからこそ、どうしようもない日常の、どこかの、誰かの、私だ、と思う。
ただ現実を直視するだけの作品を観て何が楽しいのだ、と昔の市井のひとたちは言うかもしれない。けれども私たちの熱狂が、ハレとケの往来の中に存在していないのだとしたら、私たちは「ケ」の中に静かに深く潜ることでしか繋がれないことがあって、その陰を投影する光をたどってゆくのだろうか。