The Köln Concert




18歳だった。ぼくは大学の同じクラスの一つ上の女の子に恋をしていた。エキセントリックで論理的でチャーミングな在日3世の彼女が好きな音楽や美術、映画の話についていくため、精一杯背伸びして、それまで縁のなかった芸術を必死に吸収する日々だった。


今日、キース・ジャレットが取り上げられていた「星野源のおんがくこうろん」の3rdシーズンを見ていてふと思い出した。キース・ジャレットも彼女から薦められて聴き始めたのがきっかけだった、と。


あれから30年、いつも必ず秋には"The Köln Concert"をプレーヤーで聴いている。コンサートから50年近く、今でも世界中の人が聴き続けている名盤だ。


"The Köln Concert"での即興演奏は、空間に音を差し込み、時空を増幅させてゆく。それはキース自身の音に留まらず、それぞれのひとの記憶にある時空をも振動させ、その記憶ともひとつとなってまた次の音を生み出す。そして最期には、静寂へと音が帰ってゆく。


一音一音が即興なのに必然で、生理的なリズムの揺らぎが心地よく、共振してゆく音の粒同士がぶつかりあって倍音のように作用している。何より、どこまでも淋しい。きちんと淋しい。


その後ぼくは彼女に失恋し、大学を1年で中退し、数年間国内外を放浪することになるのだが、昨年、30年ぶりにオランダで彼女と再会した。


彼女の暮らすメゾネットで、彼女の15歳の息子が弾いてくれた曲がベートーヴェンの「ピアノソナタ第14番 月光」とキース・ジャレットの「Köln , january24 , 1995 Pt.ⅡC」だった。


音楽と人生が交錯するくらいの時間を生きてきたことを感じながら、また今年も"The Köln Concert"が染みる季節になったことを少し憂いでいる自分がいる。世界に対する感動も好奇心も、あの頃より減退した分、わかってしまうことが増えた。けれども、秋特有の過ぎ去りし時を憂うより、18歳の感受性で美しいものを受け取れる大人でいたいと、キースのピアノを聴きながら、そんなことを思う夜があってもいい。




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