「普通」という呪いのようなもの
以下、私見です。私は学校教育が嫌いでしたし、いわゆる天邪鬼で「普通」と言われるものの逆へ逆へ行きたい方でした。
地方へ移住してみると「普通が一番」だと言う人がとても多いことに気がつきます。でも、自分自身が「納得」することの方がよっぽど大事ではないでしょうか?普通という呪いを解いて自由に生きる人がもっと増えれば、きっともっと楽しい世の中になるのでは。
「自立神話」と学校教育がつくり出す生きづらさ
現代は「生きづらい」と感じる人が増えているように思います。SNSなどを通じて「苦しい」「つらい」という声を目にする機会が多いからかもしれませんが、原因は単に「メンタルが弱いから」だけではないように感じます。もちろん、社会や周囲の人々に責任があるというわけでもありません。それよりも、私たちが当たり前のように身につけてきた「普通」や「常識」が、知らず知らずのうちに大きな重荷となっているのではないでしょうか。
学校教育が教える「当たり前」
十数年にわたる学校生活では、勉強だけでなく生活指導や進路指導を通じて、「社会に出たらきちんと自立しましょう」「大人ならこうあるべきです」という価値観が繰り返し刷り込まれます。周囲もそれが当たり前だと思っているので、疑問を抱くことはほとんどありません。
しかし、学校教育で示される「当たり前の人生コース」は、あくまでもごく一部のモデルにすぎません。例えば、大学を卒業して大企業に就職し、経済的に自立することが“正解”とされる風潮がありますが、それ以外にも生き方は山ほどあるはずです。「社会人になったら実家を出て一人暮らしをするのが当たり前」という認識もまた、多様な家族形態や働き方が存在する現代においては、一面しか見ていないのではないでしょうか。
「自立」への過度な執着
現代社会では「一人暮らしこそが自立の証」という思い込みが根強いように思います。実家に暮らしている社会人は「子ども部屋おじさん(おばさん)」などと揶揄されることもありますが、なぜそこまで厳しく見られるのでしょうか。
一因として、学校教育を含む社会全体が、「大人は自活して当然」という価値観を“理想の姿”として強く打ち出してきたことが挙げられます。とくに日本では、他人と違う行動をとることに対して厳しい風潮がありますので、「普通の大人」と外れた選択をする人が白い目で見られがちです。その結果、多くの人が経済的に厳しくても一人暮らしを選択し、「自分は大丈夫」と無理を重ねながら生きていくことになります。
もちろん、周囲のサポートなしではどうしても成り立たない状況の方もいますし、家庭の事情や就職先の立地などから「一人暮らし」をせざるを得ない方もいらっしゃるでしょう。問題なのは「自立しないとダメ人間」という極端な決めつけや、“一人暮らしでなければ一人前とはいえない”といった空気が当たり前のように広がっていることなのです。
真の自立は心の在り方にこそ宿る
「自立」とは、単に経済面で他人に頼らないことだけを指すわけではありません。精神的な安定や、自分の行動を自分で選び取る姿勢も大切な要素です。極端に言えば、実家暮らしをしながらも、自分で必要な費用を賄い、家族と協力して支え合っている人は、十分に自立しているといえます。反対に、一人暮らしをしていても、親からの仕送りや借金まみれで精神的にも他人の評価に振り回されているなら、それは本質的な意味での自立とは言いがたいのではないでしょうか。
ところが日本社会では、「自分で稼いで家賃を払う=自立」というイメージが強調されがちです。学校教育においても、進学や就職といった人生の節目が「大人への階段」として描かれ、「いつまでも親を頼ってはいけない」と強く諭されます。もちろん、それは一定の合理性がありますが、現代ほど暮らし方や働き方が多様化している時代には、当てはまらない状況も少なくないはずです。
生きづらさの正体を見極める
実際、多くの方がSNSなどで「お金がなくて困っている」「毎日がしんどい」と嘆いているのを見かけます。せっかく就職しても思うように給与が上がらない、家賃の支払いに追われて貯金ができない、将来の見通しが立たない――そうした焦りや不安は、「大人なら自活して当然」という前提があるからこそ、より強く感じてしまうのかもしれません。
本来であれば、お金が足りなければルームシェアをしたり、家族と協力したり、働き方を見直したりと、さまざまな選択肢がとれるはずです。しかし学校で学んだ「普通」や「常識」に縛られていると、そうした方法が最初から視野に入りづらくなってしまいます。結果的に、自分で自分の首を絞めるような生き方を選んでしまい、息苦しさばかりが募るのです。
「学校で得た当たり前」を疑うきっかけを
かつての日本では、三世代同居が当たり前の時代もありました。地域社会や親戚同士で助け合う文化が強く、人々はある意味で「依存しあいながら生きる」のが普通だったのです。時代は移り変わっても、人が他者と協力しながら生きるのは自然な姿ではないでしょうか。
もちろん、すべての人に「実家にとどまりなさい」と言いたいわけではありません。どんな生き方を選ぶかはあくまで自由です。ただ、その自由が「学校で学んできた価値観」や「世間が持つ普通」によって阻まれていないか、一度振り返ってみる価値はあると思います。自分は本当にどうしたいのか、他人の目よりも自分の気持ちを最優先にできているのか。そうした問いかけをするだけで、案外気持ちは軽くなるものです。
新たな生き方を見つけるために
今はテクノロジーの発展や社会の柔軟化によって、かつてよりも多様な働き方・暮らし方が可能になっています。その一方で、学校教育が提供してきた「普通の人生モデル」を適用しようとすると、急激に変化した現代にうまく合わなくなってしまうのも事実です。結果として、多くの人が「なんだかやりづらい」「周りから浮いてしまう」といった生きづらさを抱えています。
もし「普通」の生き方や「自立」へのこだわりが、苦しみの種になっていると感じるなら、思い切ってその前提を捨ててみるのも一案ではないでしょうか。実家やシェアハウスで暮らしながら、好きな仕事や勉強に打ち込む。フリーランスや複業という働き方で、時間に余裕を持って暮らす。そうした選択肢は昔に比べると増えており、それを認める社会の雰囲気も徐々に育ってきています。
「こうしなければならない」ことは無い
学校教育で身についた価値観が決して悪いわけではありません。基礎学力や思考力を養うには大切な場でもありますし、一定のルールや責任感を学ぶことが、社会生活を円滑にする面もあるでしょう。ただ、その過程で得た「自立こそが善」「普通にできない人は未熟」という刷り込みが、現代の多様なライフスタイルと合わなくなりはじめています。
本当の意味で「生きやすく」なるためには、学校で習ったものや世間が唱える常識を一度疑い、自分が何を望み、どんな生活を大切にしたいのかを問い直す必要があるのではないでしょうか。「こうしなければいけない」という声に耳を塞いでみたら、意外なほど自分の気持ちがクリアになるかもしれません。私たちはもっと自由に生き方を選んでいいはずですし、世間の視線よりも、自分が納得できる形で人生を歩むことのほうが、よほど大切だと思います。