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都会のつまらなさについて

先日、革職人TOMYさんのポッドキャスト【tomyとMe ちょっと革った話。】で私のnote記事を話題にしていただきました。

該当記事はこちら。TOMYさんから頂戴したお題「スピリチュアル」について、私なりの考え方を示したものです。

ポッドキャストの中では、私の書いた文章の行間まで読んでいただき、ちゃんと伝わっていて良かったなぁと思っています。また、ゲストのこばやしさんが追加の質問として、マタギの人は「山の中で怒るのかな」とおっしゃっていましたが、それについてもTOMYさんが『自分自身に怒るのでは』『内側に向ける』と言っていたのが当たっているかなと思いました。あとは、明確にハンターは「怒る」けど、マタギは「怒らない」という理由もあるのですが、それはまたの機会に書いてみたいと思います。

今日は、ポッドキャストを聞いていて新たに浮かんだ考えをまとめて書きたいなぁと。都会と田舎の自然観の違い。

私自身はそこまで、都会に自然がないとも思ってないですし、都会と田舎に大きな違いを感じない場合もあるのですが、TOMYさんとこばやしさんの会話の中では対極にあるものとして語られていた部分もあったので、ちょっと考えてみました。根本的には、都会は「ただ広い平野があったから」そこに生まれた存在、田舎はその平野がなかっただけとも捉えているので、都会否定論者というわけではないはずです。


私が暮らしている秋田県北秋田市の山里では、身のまわりにある音や動きがひとつひとつくっきりとしていてシンプルに感じられます。
木々が風に揺れる音や小川のせせらぎ、鳥のさえずりが主役で、人の声はどこか遠くにあるようです。

ときどき都会の友人からLINE電話がかかってくると、背後の雑踏や電車のわざとらしい音が妙に尖って聞こえてしまいます。
もちろん懐かしさもあるのですが、同時に少し怖いような、胸がざわつくような不思議な感覚も覚えます。

山奥では、四季の移ろいが暮らしの中心になっています。
春には雪解けとともに山菜を採り、夏には田畑に集中し、秋には収穫のよろこびを味わい、冬には積もった雪と長い夜が訪れます。
そうした当たり前のサイクルに自分の身体をあずけると、時間の流れ方が穏やかに変わっていくように思います。

一方で、都会は都会で自然はあるものの、都市そのものが「人間の喜怒哀楽がベース」になっているのではないか、と考えてみました。
誰かの喜びや、誰かの怒りが渦巻いているような感覚。街の光や音の奥に、たくさんの人々の感情がぎゅっと詰まっているように見えるからです。
そして誰かが笑っていれば、別の誰かは泣いている。それが同じ空間にごった返していることで、あの場所は熱を帯びているのかもしれないなぁと思ったのです。

以前、都会に住んでいたころは、その熱気に自分自身が吸い込まれていくような感覚があったのを思い出しました。
多くの情報やモノがあふれ、朝から夜まで街が動き続けている。
いくらでも刺激を求められる一方で、自分がどこへ向かっているのか見失いがちだったかもしれません。そして、それを見失わせる構造になっているなとも。

まるで巨大な装置に組み込まれたパーツの一つのように動いているうちに、本当に自由なのか疑問を抱いている人が実は多い。
それでも都会には人間の営みがあり巨大な巣のようになっている。

都会と田舎の自然観を考えているうちに、私が感じる【都会のつまらなさ】の根源はこれだと思いました。
「都会は人間の問題を解決するための大きな大きな施設。そこの枠に収容されていると感じるからつまらないのだ」という考え方です。
たしかに、住まいや仕事、娯楽に至るまで、都会には大量の選択肢がそろっていて、あらゆる不便や不満を解消してくれる仕組みが張り巡らされています。

それでも、その箱の中から抜け出せないような圧迫感があるのも事実です。
新しい情報に触れていても、なんだか同じところをぐるぐる回っているような気がするときがありました。
求めているのは本当にそれなのか、それとも自分自身は単に安心できる箱にしがみついているだけなのか、とふと立ち止まる瞬間があったのです。

ポッドキャストの中でも語られていましたが、問題は解決したと思っても、別の形の問題として立ち現れてくるものです。スマホができて今までの問題が解決したと思っても、今度は手放せない・スマホ中毒になるなどの新たな問題が現れる。また経済活動を推進する上では、自分たちで問題を作り上げて、自分で解決するマッチポンプのような状態も横行していますよね。永遠に解決しない問題の渦の中で、ぐるぐるぐるぐると回っているような感覚。

山奥で暮らす今、あのときのもやもやを思い返すと、確かに都会の便利さは理想的に思えます。
でも、その分だけ「誰かが代わりにやってくれる」ことが多く、自分の手足を動かす機会は少ないように感じました。
ここでは、雪かきや草刈り、薪割りなど、人間が生きるための行為を自分でやらなければなりません。

最初は不便に思えたそれらの作業も、ひとつひとつ片づけるうちに、確かな手応えをもたらしてくれました。
たとえ地味でも、自分がいなければ回らない暮らしがそこにあると実感できるからです。
自然を相手にする以上、思い通りにならないことも多く、悩んだり迷ったりすることは日常茶飯事です。

ただ、その悩み方は都会のそれと少し違うように思います。
ここでは風向きや天候、動物たちの行動の変化など、自然界からの信号が次々と目に飛び込んできます。
やるべきことや考えることが、まるで山そのものが課題を出してくるかのように投げかけられるのです。

そんな日々を送りながら、私は都会の喧騒をときどき恋しく感じるようにもなりました。
あれほど疲れると感じていた雑踏も、今思えば人の息遣いにあふれた豊かな風景だったのかもしれない、と想像します。
人間の喜怒哀楽がぶつかり合う場所だからこそ、強い生命力が感じられるのでしょう。

結局のところ、田舎が良いとか都会が悪いとか、はっきり言い切ることはできないのは当たり前の結論。
どちらにいても、どこかで何かが足りないと思うときがあるし、逆にどちらも必要だと感じるときもあるものです。
自分がいま何を求めているかで、居心地の良さは簡単に変わるのだと思います。

私は山奥で暮らしながら、都会の明かりをときどき思い浮かべています。
都会のあふれる情報や、人間の感情が交錯する熱気は、田舎では得がたい刺激です。
それでも、目の前の川や森が放つ静かな息遣いは、都会ではなかなか味わえない癒しをもたらしてくれます。

どこにいても人は悩んだり笑ったり、満たされたり欠乏感を覚えたりしながら生きているのだと思います。
それが人間らしさであり、どんな舞台を選ぼうと同じドラマが繰り返されているのかもしれません。
私はこれからも、山奥と都会のはざまで揺れ動く自分自身を見つめながら、暮らしを続けていこうと考えています。

今は都会暮らしがつまらなく感じるターン。
やじろべえのようにゆらゆらと自由に暮らしていきたいものですね。

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織山英行@マタギの足跡を辿る命の山旅
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