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決断の「鮮度中毒」に一言物申す

決断を鍛え直す発想を持ったら良いのかな

秋田県北秋田市で宿屋8年目の織山と申します。今日は「決断!即行動!」という現代の風潮に違和感をおぼえる人のための文章です。私自身もなんとか「行動せねば!」という恐怖と期待から一呼吸おくために、書いていきますね。


「決断の鮮度は大事、思い立った瞬間が勝負」という意見はよく耳にします。でも、私はここ最近、“鮮度”を意識しすぎるあまり、大切なアイデアを短絡的に捌いてしまっているんじゃないか、と疑問を抱くようになりました。まるで“獲れたての魚だから急いでさばかなきゃ”とばかりに、何でもかんでも即やってみる。もちろんそれは一見ポジティブな姿勢ですが、本当にすべてのアイデアを“今この瞬間”に裁くことが最善でしょうか? 

料理の世界には、素材によっては「熟成」が必要になる場合があります。魚でも、活きの良さが売りの刺身に適するものもあれば、あえて寝かせることで旨みが増すものもある。肉だって熟成によって柔らかさとコクが引き立つケースがある。うちの集落でも、ニワトリをハヤス(解体)ときに、一晩寝かせた方が旨いと言って、食べる前日に作業をします。実際に比内地鶏の販売を行っている社長御夫婦も同じようにアミノ酸の量が増えるから美味しいくなるんだよと話していました。決断も同様で、「いま行かなきゃ!」と躍起になるほどすぐ始めるべきものもあれば、「あえて時を置くことで、より濃厚なアウトプットが得られる」タイプのものがあるように思うのです。人はしばしば“スピード”と“質”を混同しがちですが、それらは必ずしもイコールではありません。


■ 鍛冶場の炎と「再加熱」の限界

鍛冶職人が鉄を打つ姿を想像してみてください。鉄を火にかけ、赤くなった瞬間が叩きどき。でも、そこを逃して冷めてしまったら、もう一度炉に入れて熱し直す必要があります。金属は何度も再加熱すると素材が傷むこともあるらしく、同じことを繰り返せばいいわけでもないらしい。だからこそ、ベストなタイミングで取り出し、集中して叩く。その“刹那的な鮮度”は重要だと誰もが感じます。

ただし、ここで誤解しないでほしいのは、「一度冷めたら絶対に価値が下がる」という話でもないということです。なぜなら、再加熱することで別の特性が生まれる可能性があるから。たとえば鍛造の工程には、“叩いては焼き入れ、焼き戻しを繰り返す”という流れがあり、そこで生まれる強度や粘りは“素人の早とちり”では得られない味わいです。決断やアイデアも同じで、一度冷めてしまったものをあえて再加熱する過程で、思いがけない強度や深みが生まれるかもしれない、と私は思うのです。

問題は「再加熱を何度でも無条件にやればいい」というわけではなく、再加熱に伴う“素材の劣化”もある、ということ。アイデアを寝かせすぎると自分の中で腐らせてしまうかもしれないし、何度も熱を入れ直すうちに、最初に感じたピュアな熱量とは違う“歪み”が生じるかもしれない。だからこそ職人は「今が取り出しどきだ」と瞬時に判断して叩くし、「このぐらいで一度熱を冷まそう」と休ませる。要するに、鮮度重視か、熟成か、その判断が職人としての腕の見せどころなわけです。


■ わざと腐らせてみるという選択肢

鮮度のあるアイデアは腐らせたくないもの。でもあえて「これはいま腐らせてみよう」と、意図的に放置することには独特の価値があります。なぜなら、腐っていくプロセスの中で“本質”が浮き彫りになる場合があるからです。たとえば、発酵食品がいったん“腐敗”と紙一重の状態を経て、旨みを増すのに少し似ているかもしれません。 

「そのアイデア、今すぐ始めなきゃ腐るよ!」と周囲に急かされたときに、「いや、これは腐らせる」と言える覚悟はそうそう簡単にはできません。でも、そこに“あえて寝かせる”戦略があると、あとから「あんなに匂いのきつい素材だったのに、意外なところでコクが出てきた」と思いがけない展開が起きる可能性がある。もちろん腐って食中毒を起こすリスクもありますが、そのリスクを踏まえてなお「もう少し独特の風味を出したい」という大胆さが、自分にとっての新しい扉を開くケースもあり得るのです。


■ 鮮度至上主義と、未完の美学

ここで“決断の鮮度至上主義”を少し疑ってみましょう。鮮度を求めるあまり、“未完の状態”にあるアイデアを急いで表に出していないでしょうか。未完のものは、もう少し時間をかければ違う形に進化する可能性があります。シナリオ執筆やデザインの仕事をしている人によくあるのが、「あと1週間寝かせれば見えてくるはずのアイデア」を、提出期限や自分のせっかちな性格のせいで、拙速にまとめてしまうこと。仕事上やむを得ないとはいえ、そうやって生まれたものには、あとで「もっと練れたかも」というモヤモヤが残る。もちろん、“とにかく出す”ことで得られるブラッシュアップもありますが、“まだ日の目を見ない未完”だからこそ得られるインスピレーションもあるはずなんですよね。

では、どう折り合いをつけるか? 私は「絶対にいま動かなきゃ腐る!」と確信できる案件は即動き、“何となくピンとこない”ものは保留にしてみる。保留の間に忘れてしまうアイデアは、それはそれで大したことなかったんだと割り切る。思い出されるなら、それは自分にとってまだ価値がある証拠かもしれない。そして、保留期間にあえて“発酵”させることで、あとから“こんな味が出るとは思わなかった”という展開に期待する。大きく分けると、そんなやり方を取ることが多いです。


■ 「決断の鮮度を逃す」という贅沢

時に、「決断の鮮度を逃す」という行為は実は贅沢かもしれません。鮮度を重視する人から見れば、単なる機会損失に見えるでしょう。けれど、“機会損失を自覚しながらも、あえて手を出さない”という選択肢を持てるのは、余裕のあるときだけかもしれませんし、その余裕が思わぬ形で別のアイデアに注がれる可能性だってあります。

たとえば、釣り人を想像してください。目の前で良さそうなポイントを見つけたが、そこにすぐ餌を投げるのではなく、あえてしばらく観察する。そこで見えてくる潮の流れや魚群の動きが、もっと確実な釣果につながるかもしれない。それは鮮度よりも“熟視”を重視するアプローチ。もしかすると、ポジションを変えたほうが大物が釣れるかもしれないし、投げるタイミングが今じゃないかもしれない。“いま投げないの? 逃しちゃうかも!”と言われても、それでもなお観察を選ぶ。そこには“ゆとり”のようなものがあるし、ゆとりがあるからこそ別の魅力が見えてくる。こんな感覚が、仕事やクリエイティブでも通じるんじゃないかと思います。


■ 一度きりの鮮度がすべてではない

結局、私たちが「決断の鮮度」という言葉に惹かれるのは、“失われてしまうかもしれない瞬間の輝き”に対する恐怖と期待が同居しているからでしょう。あの一瞬を逃すと二度と戻ってこないかもしれないと思うからこそ、人は勇気を振り絞れる。だけど、同時に“腐らせてこそ出る味”や“もう一度加熱すると強度が増す”ようなアイデアだって存在する。勢いか、熟成か。どちらの道も、“正解”が一択であるケースは稀で、むしろ両方に可能性があるのが現実の面白さです。

だからこそ、「鮮度が失われる=全てが終わり」ではないと、私は言いたい。瞬発的に動かなかったアイデアに別の未来が待っているかもしれないし、一度動き出して冷めそうになったところを、あえてもう一度火にかけることで新たな発想が生まれるかもしれない。“失ったはずの鮮度”が、二度目の炎で化学変化を起こす可能性だってある。それに気づけるかどうかは、人それぞれがどれだけ“腐りかけの素材”と向き合えるか、あるいは“熟成に耐えられる粘り強さ”を持っているか、にかかっているのだと思います。

決断が遅いせいで機会を逃すこともあれば、拙速な決断で大事なものを捨ててしまうこともある。あえて“鮮度を無視する時間”を過ごしてみるのも、意外なブレイクスルーを生むかもしれない。結局のところ、人生の醍醐味は、いつどのタイミングでどんな行動を起こし、それがどんな化学反応を生むかを実験し続けるところにあるのではないでしょうか。鮮度を最大限に活かすもよし、あえて腐らせるもよし、もう一度火を入れて強度を上げるもよし。

自分のアイデアや決断を“目利き”する楽しみこそが、クリエイティブな生き方をしていくための、ちょっとしたコツになるのかもしれないと思い書き記してみました。
今日も最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

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織山英行@マタギの足跡を辿る命の山旅
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