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登山で自然に触れるって、どういうこと?

〜「触れている」とは何を意味するのか、山から学ぶ“存在”の問い〜
哲学的にひねくりまわして考えることが好きな私のメモ↓


SNS時代の“山”と“自然”

私たちはいつの頃から「山に登れば自然に触れられる」と当たり前のように思い込んでしまったのでしょう?

SNSによって多くの人が山に興味を持つ一方で、「いいね」の数や百名山制覇といった“分かりやすい成果”だけが先行し、本当の意味で自然と向き合えているのかどうか。私はそこに、疑問を感じるときがたまにあります。

ただの老婆心ですが、生涯、年を取った時、山に登れなくなった時、そのときにこそ、今までの山との触れ合い方が如実にあらわれると思っているので。


自然とは“客観”ではなく“共生”

マタギの人々と行動を共にしたとき、自然とは「外にある客観的な風景」ではなく、「そこに生きる者同士が響き合う世界」だと痛感しました。
彼らは獲物を追うだけでなく、風や土の香りから四季の移ろいを読み取り、森の木々とも対話するように一歩一歩を踏みしめる。その姿を見たとき、自分が「登る」という行為を通じて山の表面ばかりをなぞっていたことに気づかされたのです。


五感が問いかける“存在”の深み

視覚:目に見えているものがすべてなのか?

朝靄に包まれた森の風景は幻想的ですが、その向こうにある動物たちの生活や土中の菌糸のネットワークを、私たちの目はどこまで捉えられているでしょう。「見えているもの」と「見えていないもの」の狭間で、自然はどんな語りかけをしているのか。

聴覚:沈黙の“音”に耳を澄ませる

風や雫の音はもちろん、動物が足音を忍ばせて森を横切る瞬間の「気配」も、静寂の中でこそ研ぎ澄まされます。沈黙が問いかけるのは、「耳を傾ける姿勢」そのもの。 果たして私たちは、自然の声を聞くつもりがあるのでしょうか?

嗅覚:記憶と感覚を呼び起こす“香り”

冷たい土の香りや、雨上がりの苔むした岩肌の匂い。それらはどこか懐かしさや安心感を呼び起こします。私たちの嗅覚は、太古の昔から自分を取り巻く環境と結びつく鍵のようなもの。 その鍵を、私たちは普段ちゃんと使えているでしょうか?

触覚:自然との“境界”はどこにある?

湿った葉に手を伸ばしたとき、その冷たさやぬめりが自分の肌と交わる瞬間に、私と自然の境はあいまいになります。触覚を通じて、「私とは何か」「境界とは何か」という哲学的な問いが頭をもたげる。

味覚:体内に取り込む自然の一部

山菜や渓流で捕れた魚を口にするとき、私たちは自然の一部を自らの身体に取り込んでいます。「食べる」という行為は、“外”にある自然を“内”へと迎え入れる行為。 その瞬間、私たちは自然と“同化”していると言えるのかもしれません。


“登頂”という幻想(達成感と虚無感の狭間)

山頂に立ったときの達成感は、確かに格別です。
SNSでの反応も得やすい。
しかし、その瞬間に感じるのは本当に“自然”なのでしょうか?

頂に到着した瞬間、「登った」という事実が私たちの頭を支配し、山が持つ歴史や文化、そこに息づく無数の生命、あるいは山自体の存在感を十分に味わう前に満足してしまうことはないでしょうか。

登る前の不安や困難、山頂への渇望。それらが達成されたときに訪れる一瞬の虚無感も、また登山の本質かもしれません。登頂をゴールとする限り、そこから先の世界を見落としていないか、自問自答してみる必要があると感じます。


何を頼りに“自然”を知るか?

GPSや高機能ウェアのおかげで、安全かつ快適に山を楽しめるようになった現代。しかし、私たちの“自然を感じる力”は、便利さと引き換えにどこかに置き去りにされていないでしょうか?

テクノロジーが私たちをサポートしてくれる一方で、自分の身体と五感を使って“山のサイン”を読み取り、それに応じて行動する喜びは得難いものです。

いずれAIが登山ガイドを担う未来が来るかもしれませんが、そうなったとき、私たちは何をもって“自然に触れる”と呼ぶのか。


山に“触れる”とは、自分自身の存在を問い直すこと

私たちが“自然に触れている”と思い込むとき、それは単に山の外観に触れているだけなのではないでしょうか。

自然は“触れる”対象にとどまらず、“自分がどんな存在であるか”を問いかけてくる大きな鏡でもあります。

「山頂に立ったからゴール」ではなく、「山が私たちの中に入り込んでくる瞬間」を見逃さない。それこそが山が教えてくれる“本当の登山”なのだと、私は思うのです。


あなたは何を求めて、山を歩くのか?

もしあなたが次に山に行くなら、ぜひこの問いを携えてみてください。「自然と触れ合う」という言葉の裏にある、より深い意味を探してみてください。

自分は何を求めて、山に行くのか。山を歩くのか?

そこには、「ここに生きているのは誰なのか」「私を突き動かすものは何なのか」といった、哲学的な問いが隠されているはずです。山頂での記念写真や百名山の制覇だけでは得られない“自分の存在そのもの”を見つめ直すきっかけが、山の声と一緒に聞こえてくるかもしれません。


以上、高い頂を目指すことも素晴らしいですが、同時に「自分自身の深い内側を問い直す」という登山の醍醐味にも目を向けてみませんか?

日本には八百万の名山があると思っています。どこかの知らないおじさんが決めた基準ではなく、自分の中で芯を持って登山を続ける人を私は応援したいです。

本日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。 

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織山英行@マタギの足跡を辿る命の山旅
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