
山の客席にただ坐る
昨年、私の宿にやって来たお客さんの話を書きたいと思います。何回か書き直してますし、お話している言葉が一言一句あっているわけではないのですが、とりあえず。
その方は、東京のど真ん中で長年カフェを営んでいるという70歳代の女性でした。
一見、山暮らしとは無縁そうな雰囲気でしたが、「昔から“マタギ”に惹かれているんです。なんだか神話みたいじゃない?」と目を輝かせ、傘寿も間近だというのに身軽な小型ザックを背負って山に入っていきました。私も多少の覚悟はしていたのですが、正直、こんな形で“山”に挑戦する人がいるのかと驚かされました。
その方は、到着早々「晩ご飯前にひと眠りするわ」と言い残し、布団に潜り込んだかと思うと、わずか数分でスースーと寝息を立てています。都会では夜遅くまで仕事に追われながら、明け方近くまで人と会っていたという生活を長年続けていたとか。山間の静けさに触れて、積年の疲れがどっと出たのかもしれません。私はふと、「この人は、山の緊張感とは正反対の“ゆるやかなオーラ”をまとっているな」と感じました。マタギ文化というと鋭さや武骨さを思い浮かべる方が多いですし、私自身もどこかで「山の厳しさを体験させねば」と身構えていたのですが、その先入観をあっさりと覆されたのです。
翌朝、彼女はカラリとした顔で起きてきて、「さあ、行きましょう」とだけ言いました。時刻はまだ朝の6時すぎ。大半のお客さまはこんな時間に出発しませんが、「せっかくなら夜明けの森を見たい」というのがご希望でした。冬の間は雪深くて行けないコースが、その時はちょうど秋の終盤で歩きやすい。私は少し険しめの尾根道に案内することにしました。
ただ、その朝はどんよりした曇り空。日が昇る気配はあるのに雲が厚く、霧も低く垂れこめていたため、視界は悪く、彼女が期待していたような光の演出は見られそうにありません。山道を歩き始めてわずか十数分、足元はぬかるみに変わり、かすかな小雨まで降り始めました。「これはちょっと可哀想だったかな」と私が思いかけたところ、彼女は急に足を止めて「なんだか最高!」と笑ったのです。あたり一面、さわさわと木々を濡らす雨音だけが響いていました。
「耳を澄ませるって、こういうことだったのね。東京でどれだけ“いい音楽”に囲まれていても、こういう“無数の自然音”は味わえないわ。雨が木の葉をすり抜ける音、土に吸い込まれる音、風の流れのなかで何かが囁いているような音……どれもバラバラなのに、一緒になると不思議に調和しているのね。」
思いもしなかった言葉を聞いて、私は何ともいえない気持ちになりました。山では私たちが期待する「絶景」や「ドラマチックな体験」がいつ訪れるかなんてわかりません。むしろ、何も起こらない、何も見えない曇天や霧のなかで「山って、けっこう楽しんでるな」と感じる瞬間がある。山は時に、私たちの期待を裏切ってさらなる驚きを用意してくれるものだと、私自身も薄々わかっていたはずなのに、それを都会育ちの彼女がまっすぐに見抜いてしまったことが、ちょっと面白かったのです。
そこからさらに山道を進んでいくと、今度は森の奥へ分け入る狭い獣道に出ました。雨上がりの地面は滑りやすく、獣の足跡がくっきりと残っています。熊なのかカモシカなのか、はたまたイノシシか、とにかく何者かが数時間前に通った痕跡が林を斜めに走っていました。「怖くないんですか?」と私が尋ねると、彼女は「コーヒーを運ぶ最中にオーダーが重なって、お客さん全員が文句を言い始めるときの方がずっと怖いわ」と笑うのです。そしておもむろに地面に膝をつき、足跡に手を当ててみせました。たしかに、獣の足跡は大きいけれど、触る分には危険はありません。
しんとした空気のなか、彼女は「あったかい」と一言だけ呟きました。実際には足跡自体はもう冷えているはずなのですが、どうやらそこに残る体温のようなものを想像しているようでした。ある意味、彼女は勝手に“獣のぬくもり”を感じ取っていたのかもしれません。でもその姿を見ていると、自然を難しくとらえず、むしろ素直に好奇心をぶつけた方が、何倍も山を楽しめるのだなと感心してしまいます。
その日のハイライトは、わずかな晴れ間が訪れた朝の8時過ぎでした。霧が一気に流れ去り、思いもよらず紅葉のモザイク模様が眼下に広がったのです。雨にしっとり濡れた木の葉は一層色鮮やかで、あちこちに滴る雫が日光を受けてキラリと光る。先ほどの音の世界が、今度は色の世界へと変わっていました。
私は一瞬だけ言葉を失い、慌てて「ご覧ください、きれいですね」と声をかけました。でも彼女はもう、夢中でその景色に目を奪われていました。しばらく経ってから、顔を上げて言った一言が印象的でした。
「こういうのは、誰のためのショーでもないのね。山が勝手に楽しんでいるところに、私たちがたまたま居合わせただけなのね。」
私はそれを聞いて、意外なほど清々しい気持ちになりました。マタギとして自然に挑んできた私が、どこかで「こちらが山を評価している」という意識を引きずっていたのかもしれません。しかし、本当は森だって自由に呼吸し、雨を受け、光に輝いている。それを“見せていただく”のが、私たちが山に入る理由のひとつなのではないでしょうか。まったくの素人と思っていた彼女が、その一番大切な部分をさらりと口にしたことに、ちょっとした敗北感すら覚えました。
下山後、宿に戻ってきた彼女は「熱いコーヒーを淹れたいわ」と言い出し、持参の道具で慣れた手つきで豆を挽き始めました。湯気と香りが部屋に広がり、私もお裾分けをいただきながら、山中で感じた雨音や霧の表情をもう一度思い返していました。以前は「山に入るには厳しさを知ることが第一歩」と力んでいた自分が、なんだか少し解放されたように感じたのです。
彼女と一緒にいた数時間で、山の“険しさ”よりも、むしろ“楽しさ”や“優しさ”のような面が際立って見えました。私が「マタギの宿」などと身構えなくても、誰かの何気ない好奇心が、こうして自然の懐をより深く感じさせてくれるのだと知りました。
翌日、彼女は「また来るわ」とだけ言って、あっさりと帰っていきました。
私はこれまで、山を語るときはどうしても厳しさや孤独を強調しがちでしたが、彼女のおかげで自分の視野がぐっと広がった気がします。
山を語るのに、専門的な知識や「俺は山のプロだ」という誇りばかりではもったいないのかもしれません。森を歩く動機なんて、人それぞれでいいのだと思います。「なんだかわからないけど惹かれる」「ただぼーっとしたい」「身体を動かしたい」「写真を撮りたい」。
どんな理由でも、山は勝手に好きなショーを見せてくれますし、その一方で、思いもよらない顔をのぞかせてくれます。
派手な絶景がいつ見られるかは、実は私にもわかりません。雨が降るかもしれませんし、霧が立ちこめて何も見えないかもしれません。でも、そんな日だからこそ、耳を澄ませる、足跡を触れてみる、香りを感じる。
自然には、私たちが思いつきもしない楽しみ方を用意しているのだと思います。そこに人の想像力がふっと絡む瞬間があると、山はさらに面白い表情を見せてくれるものです。
私にとってマタギとは、自然の「大いなる気まぐれ」に身を置くためのひとつの生き方ですが、それだけが正解ではありません。むしろ、カフェのご主人のように、都会の暮らしの真ん中にいる人が山でどんなことを感じるのか、私自身が興味津々なのです。そして、そんな“予想外の感性”こそ、山を柔らかく、豊かに楽しむための大きなヒントなのではないでしょうか。
山と人との出会い方は無数にあります。私はこれからも、この宿で、そんな多様な“山の入り口”を持つ人々に出会いたいと思っています。
いいなと思ったら応援しよう!
