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私がメディアの取材を断る理由

私は現在、日本のマスメディアの取材について、基本的にはお断りしている状況です。
海外からのオファーは積極的にお受けしているのですが、日本のマス向けのものは、ちょっと警戒してしまいます。

ときどき「せっかく素晴らしい場所なんだから、もっと世の中に広く発信すべきだ」という声を聞きます。テレビ番組や雑誌記事の取材が来ると、「知名度を上げて観光客を呼び込むチャンスじゃないか」という期待をされる方も多い。けれども私は、その申し出のほとんどを断り続けています。

もちろん、メディアには大きな力があります。取材がきっかけでいっきに有名になる可能性だってある。名前すら知られていなかった土地が“ブーム”となり、土日は人でごった返すくらいのにぎわいになるケースも珍しくありません。

それを喜ぶ声もあれば、地元の方々にとっては「急に人が押し寄せてきて何だか落ち着かない」「自分たちのペースが崩れてしまった」と感じる場合もある。一瞬でも活気が出るのはたしかに刺激的ですが、はたしてそれは私たちが本当に望む姿なのか――長い時間をかけて積み重ねてきた関係性を壊してしまうのではないか――そんな問いがどうしても消えません。

取材を断る理由は、いくつかあります。ひとつは「オーバーツーリズム」への懸念です。大きなメディアで取り上げられると、普段なら来ないほど多くの人が短期間に押し寄せることがあります。表面だけ見れば、“一気に注目を集めた”と華やかなストーリーに映るかもしれません。

けれど、小さな集落や細々と営んでいる店にとって、その急激な増加は予想もしなかったトラブルを生むのです。道路や駐車スペースが足りない、ゴミの処理が追いつかない、地元の人が普段利用している公共施設まで混雑し、生活が立ち行かなくなる――オーバーツーリズムは、一度発生すると解消までに大きな労力を要します。そして、ブームが去ったあとに残るのは、環境への負荷と疲れ果てたスタッフの姿、そして「流行りものだった」という一種の虚しさです。

あとは、地域固有の文化を「極短時間で伝えることは難しい」です。以前は何でもかんでも取材は受け入れていました。でも、たった1日来ただけで、それが全てかのように表現するのは誤解を生むことの方が多いです。例えば「Youは何しに日本へ?」という番組でテレビの取材が入った時には、地元のお父さんたちも乗り気でした。いつも見ていた番組だったので、大晦日にも関わらず積極的に協力してくれていました。でも、ある一点でウソが放映されてしまったのです。取材中は「これはウサギ狩り」だと説明していたのに、オンエアのナレーションでは「熊狩りへ行く!!」とされてしまいました。(テレビだからできるだけキャッチーにしたいというのは分かるのですが…)大晦日に熊狩りに行くことはありません。それを見た猟友会、関係者からは私たちが間違った情報を伝えているのだと誤解され、釈明をするのに苦慮したことがあります。それ以来、テレビの取材は遠慮がちになりました。

ホテルフッシュでの夕食

もうひとつの理由は、「その土地本来の呼吸を乱してしまう」ことです。私たちが大事にしているのは、ここに住んでいる人たちの暮らしのリズムや、訪れる人との対話が生まれる瞬間です。

きらびやかな広告やメディア露出が、ただちに“悪”だとは言いません。ですが、それに惹かれて大勢の人があふれてしまうと、風景や会話に落ち着きがなくなり、何気なく交わされてきた言葉やふるまいが遠慮と疲弊に変わっていく――その危うさを感じずにはいられないのです。たとえば、以前は来客にゆっくりお茶を振る舞っていた店主が、観光客の波に追われて余裕を失い、注文さえ滞りがちになる。あるいは、道ですれ違った村の人が気軽に声をかけてくれなくなる。そうした、小さな断絶が生まれるとき、その土地の“呼吸”が乱されているように思うのです。

考えてみれば、私たちが求めているのは、“ものすごくたくさんの人に一気に来てもらう”ことではないはずです。

むしろ、何時間もかけて山道を登りきった末にたどり着くような場所を、自分自身のペースで味わいたい――そんな人に静かに出会うことが、この地にとっては尊いのではないでしょうか。いまはSNSが発達し、写真や文章を通じて一瞬で何十万、何百万という人に情報が届く時代です。ですが、もしこの場所を本当に好きになってくれるならば、テレビ番組や雑誌を見たからというより、自分の足で探し、たまたま地元の人に誘われて来た――そんなストーリーのほうが価値があるように思えてなりません。

もちろん、メディアの力を借りなければ生き残れない地域もあるでしょう。限界集落と呼ばれ、財政が苦しく、なんとか観光収益を得なければならない切実な現実もある。だからこそ、一概に「メディアに取り上げられるのは悪だ」とは言えません。むしろ、上手に活用できれば、その恩恵は大きいとすら思います。ただ、私たちの場合は、そうした大きな流れに乗るときのコストやリスクをしっかりと把握していない――いや、把握しているからこそ、いまはまだ受け入れる勇気がないとも言えます。ブームが去ったあとに“疲弊だけが残る”姿を想像したとき、それが地域にとって本当の意味での豊かさにつながるのだろうか、と疑問を抱かずにはいられないのです。

 「取材を断るなんてもったいない」と言われるたびに、私は心の中で問い返します。

いったい何が“もったいない”のか。もしも、この小さな町の静かな呼吸が一時の熱狂で乱され、やがて人が離れた後に地元の人たちの疲労と荒廃した場所だけが残るなら――それこそが、真の意味での“もったいなさ”ではないのか、と。

今の私たちには、外から見れば奇妙にも映るかもしれない“ゆるやかな持続”の方がずっと大切だと思うのです。短期的な経済効果に振り回されず、必要としてくれる人がゆっくりと通ってくれる。たとえその人数が少なくても、その一人ひとりときちんと顔を合わせ、声を交わし、本当の魅力を伝えられる――そういう段階を踏んで関係を育むことこそが、長い目で見れば地域を支える本当の力になると信じています。

そういうわけで、私はいましばらく、メディア取材を断り続けるつもりです。“もっと有名になりたい”よりも、“ここで生きる人の笑顔と呼吸を崩したくない”という願いのほうが強いからです。もしこの場所があなたにとって本当に必要な場所ならば、メディアの力によらずともきっといつか必要なタイミングで出逢えると信じています。宣伝や知名度によらない、まっさらな状態で出会う土地の空気はきっと格別です。ここは決して広く知られなくともいい。

大事なのは、来る人がこの場所を大切に思ってくれるかどうか。そのほうが、広さよりも深いつながりをつくってくれると、私は信じています。

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織山英行@マタギの足跡を辿る命の山旅
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