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マタギの世界観について、学生の質問から考えたこと

狩猟をテーマとした宿屋を営んでいるので、時折興味を持った大学生が訪ねてきてくれます。その時に毎回説明していることを文章にしてみましたので、備忘録として掲載させていただきます。

これが正解というわけではないので、森吉山麓に住むひとりの人間の自然観、考え方として捉えていただければと思います。

質問1. マタギの定義について教えてください。また、その定義が昔と今で変化していますか?(生計を立てる手段なのか)

一般的には「マタギ」というのは、熊などの大型獣を捕獲する技術と組織をもち、狩猟を生業としてきた人のことを指すとネットでは書かれていますが、それはマタギの1面しかとらえていないと思います。熊追いはマタギという姿が20面あるうちの1面でしかなく、それ以外の私が知っている所謂マタギと呼ばれる人たちの姿というのは、山が好きで好きで仕方のない人、山に行かないと体がムズムズしてきてしまうような、そんな人たちばかりです。春は山菜採り、夏は魚釣り、秋はキノコ採り、冬はウサギ追いがメインです。私はこの地域の狩猟者(便宜上マタギという言葉を以下使用します)、マタギは「里山の保全者」とか「山の哲学者」に近いと思っているのですが、物心がつくまえから2,3歳のころから山に入り、食べ物も遊び道具も全て山から授かって生きてきたのがマタギの姿だと思います。一般の方が考えているマタギというのは教師や警察官のような職業として捉えられがちなのですが、私はそれだとマタギという存在を誤解してしまうと思っています。ホントはマタギという言葉を使わずに説明ができれば一番いいのですが(手垢まみれになっていて誤解の部分が大きくなっているので)、ひと言でいうとすれば、マタギは単なる職業ではなく、山里で暮らすことに適したライフスタイルの1つだと思っています。そもそもマタギの語源にも諸説あり、北海道のアイヌ語で冬の人、狩猟を意味する「マタンギ」「マタンギトノ」から来ているという説や、山をまたぐように速く歩くことができるから「マタギ」という人もいますし、マンダの木(一般的にはシナの木)の皮をはいで道具を作っていたので、マンダ剥ぎから「マタギ」になったという人もいます。それから股が分かれた木の棒を使うのでマタギとか他にも色々な説があるのです。イメージとしてある、狩猟だけで生計を立てていた時期は短く、最も良かった時代は1800年代後半(江戸時代)から1900年代前半(明治時代)までと考えられています。農民でも銃を持つことができるようになってから集団の猟が成熟し、熊の胆などが薬として自由に売買できた時代です。(今のマタギの定義は、映画や本の影響が大きく、ネットやテレビのおかげで熊狩りの人として認識されていますが、かつては薬売りのおじさんというイメージが主でした。薬種商が阿仁には70件もあったのです。昔は気軽に病院へ行ける環境ではなかったため、村から病人を出さないことが第一でした。そこで現在では未病と呼ばれるうちから、動植物を使い大きな病となる前に自己免疫力を高めて治していたのです。漢方薬や薬草の知識に長け、村人からの信頼も厚かったそうです。)薬事法が制定されてから漢方薬としての販売ができなくなり、昭和初期までは皮の需要もありましたが、現在は当時の価格の200分の1まで下がっているため狩猟だけでは生活が成り立ちにくくなってしまいました。狩猟だけで生活をしている人は現在北秋田市にはひとりもいません。そういう意味では、マタギは絶滅したという人もいるほどです。しかし、私が山のことを教えてもらっている師匠のような人は「マタギ」というのは、自然界と人間界をまたいで活動する人、一年を通して春夏秋冬、四季をまたいで山と関わって活動する人のことだと言っていたので、それを信じて活動しています。マタギがいるからこそ、山と人間との調和がとれていると私は考えています。熊が里に下りてこないように教育をしたり、山道の整備や生態系を守ったりもしています。

質問2. マタギになる理由はなんですか?(職業、趣味、ボランティア・地域活動)


マタギというのはなるものではないと考えます。単なる職業のようなものではないからです。
昔からこの地域で生まれ育った人は当たり前のようにマタギとして生まれ、毎日のように山に入り活動をしている人もいます。最近は私のように成人になってから山に入り始める人も増えてきました。そういう意味では、外部の人間は一生マタギになれないとも言えますし、マタギの心を理解した瞬間に、マタギとしての一部が始まるとも言えます。猟友会に所属している人全てが無条件にマタギだとは思いません。所謂ハンター、猟の成果にこだわったり、自分さえよければ良いという人もいます。私がマタギ的な生活をしているのは、そうしなければ山里での暮らしが維持できないと考えているからです。後述にも出てきますが、野生動物と共存していくためにはマタギの知恵が必要だからです。秋田県でもこれからは鳥獣被害額が増えていく恐れがあります。現在、秋田県にはイノシシやシカがいませんが、徐々に増えてきている状況があります。イノシシやシカが増えてくると農作物の被害が莫大なものになってしまうのです。

質問3. マタギ文化はどのようにして始まりましたか?マタギの歴史について教えてください。かつては東北全体にいたと言われているマタギが阿仁に残ったのはなぜですか?


一説として、清和天皇の時代(850~880年)上野の赤木明神と下野の日光権現が争っていたとき。日光権現は、弓の名手万三郎に頼み、赤木明神を退治してもらう代りに、全国の山立御免の朱印状を朝廷に頼み、万三郎に与えた。その後、万三郎は、阿仁の山にきてマタギの祖となった。また一説には、万三郎は山形県山寺を支配していたが、慈覚大師にゆずった。大師は境内付近一帯を殺生禁断の地としたため、万三郎は荒瀬(阿仁町)に移ってきたとも伝えられています。北秋田市の根子集落では、源平合戦の落人が集団で移り住んだと言われていて、そこで集団での熊追いの技術が確立されたと考えられています。マタギが阿仁に残ったのではなく、阿仁から東北全体・北関東までに広がっていったのです。昔は長男しか家を継ぐことはできませんでした。次男、三男は旅マタギとして別の地に移り住み、そこで結婚し子どもをつくりました。その過程で熊追いの技術も広がっていったのです。白神マタギ、鳥海マタギ、小国マタギなどなど各地に広がっていますが、祖先が阿仁マタギということです。今では年に1度マタギサミットというのがあり、各地のマタギが一堂に会し情報交換や親睦を深めています。そして何より、この雪深い地域で人が生き残っていくために必要だったことが大事なところです。

質問4. マタギの規律や風習、生活スタイルについて教えてください。


マタギは山に囲まれた狭い土地で暮らしていました。昔のマタギ装束では頭に菅笠、毛皮をまとい、村田銃を持っています。(村田銃には弾は1発しか入りませんし、射程距離は数十メートルです。)現在はレインコートに、数百メートル先まで狙えるライフルスタイルに変わっています。
変わらないものは、代々伝わる巻き狩りと呼ばれる狩りの方法です。まず、朝早く集まって、シカリと呼ばれるマタギのリーダーが役割を指示します。その役割に沿って行動していきます。山で大声を出しながら歩く人がセコと呼ばれます。そして、尾根で待って銃を撃つ役割の人をマツバと呼びます。冬山の中で何時間でも熊が来るまで待ちます。マツバは尾根に逃げる熊の習性を利用しています。そして、セコが山の下に一直線に並びます。シカリは全て見渡せる位置に留まります。シカリの指示が出ると、セコは山の下から熊を追い立てます。この山にいる熊は逃げることができなくなります。
熊を仕留めると、「ショウブー!ショウブー!」と声が上がります。ショウブとはマタギたちの合図です。一斉に山から下りて、熊を村まで運びます。熊を運ぶと、食べる前にケボカイと呼ばれる儀式がシカリによって行われます。熊の魂を山の神に返すという意味があります。この儀式には必ず熊の頭を谷側へ向けなくてはいけない等の決まりが多くあります。
儀式が終わると、熊は解体され、肉は全員で平等に分けられます。これはマタギ勘定と呼ばれ、シカリでも新人の若者でも、肉の量は同じです。狩りに10人参加したとすると、誰が捕獲しても獲物に対して10人すべてに同じ権利があり、見ていただけの人にも同じ量が分配されます。ハンターでは多くの場合、狩りは個人の成果となりますが、そこが違う部分です。
その他の分けられない部分はセリにかけ、ほしい人がお金を払って持っていきます。セリの収益も狩りに参加した人たちで平等に分けています。
続いては、モチグシと呼ばれる儀式を行います。クロモジの木を削って串を作り、心臓3切れ、左の首または背肉3切れ、肝臓3切れ、計9切れの肉を3本の串に刺し、手に持ったまま焚き火で焼いて山神に供えるものです。全ての祭事が終わると、熊鍋を囲んで夜通し宴会が行われます。
日常生活でも、マタギは道具をとても大事にします。銃はもちろん念入りに手入れされます。続いて毛皮。熊の毛皮ではなく、カモシカや猿の毛皮が多く使われていました。サッテは、雪山を歩く際に、杖になったり、スコップ、ピッケル、銃座、ハンマー、舵の役割など、ひとつで多くの使い方があります。ナガサは、ナタと包丁の中間です。秋田内陸線の阿仁前田駅前にはナガサを作っている唯一の鍛冶屋さんがあります。マタギの命とも呼べるものです。ワラダは、ワラで作られたウサギ狩りの道具です。ワラダを投げると、鷹が飛ぶときと同じ音がします。斜面すれすれに投げて、近くの穴にウサギが入ったところをすばやく生け捕りにします。ワラダ猟ができて一人前と言われています。猟では、熊よりもウサギを獲ることの方が多いからです。マタギが足に履いているものはカンジキです。カンジキは雪山歩きの必需品です。クロモジやイタヤカエデの枝が使われます。マタギのカンジキ歩きの特徴は足跡が一直線になっていること。雪を踏み固められる力が半分になる。重心の移動が少なくなる。2つの理由で、体力がもち、遠くまで歩くことができます。それから、山で生き抜くポイントは、いかに火をおこすかです。ダケカンバという樹木は、油分が多く雨の日でも簡単に火がつくため、マタギは皮をよく集めています。そして、どんな時でも火をつけ暖をとったり食事をつくったりしています。最後にモロビという大切な存在について。この地域の神棚には、ある植物が捧げられています。それがモロビです。一般的にはアオモリトドマツと呼ばれています。モロビの香りは穢れを払い、魔除けの効力があると信じられています。猟の前には、モロビを燻して全身を浄め、里の匂いを消します。また、猟に行く数日前から女性を遠ざけます。山神が女性だからです。さらに水垢離という、真冬に冷水を何杯も体にかけて穢れを洗い落とす修行も行われる場合があります。私は、山と動物を敬い、人々が自然と寄り添いながら、助け合って暮らしている姿を、これからも大切にしていきたいと思っています。

質問5. マタギとハンターの違いは何ですか?

マタギとハンターとの一番の違いは、猟に出て獲物がとれなかったときの考え方に現れています。ハンターの場合は「獲物がとれなくて残念」という感情が第一に出てくると思うのですが、マタギの場合は違います。マタギは獲物は全て山の神様が授けてくれるものだと考えているので「今日はこれが一番良いと山の神様は考えているのだな」と思います。もし、獲物が出てきて無理に追っていたら、崖から落ちて大事故につながっていたかもしれないし、獲物がとれなくても今日は今日で良かったと思うのです。

質問6. 自然や動物と共生していく上で、どのようなことを心がけていますか?


孫の世代まで残していくことを常に考える。サスティナビリティを常に心がけているのが大事だと思います。山菜採りやキノコ採りのときに現れるのですが、必ず来年、または次の世代のために残すというのがマタギの姿です。5本はえていたら、3本を採り2本を残します。他の山菜取りの人は5本とも採っていってしまうのですが、それでは来年以降、同じ場所で採ることができなくなってしまうのです。そういった山を大切にして、山を育てながら、山に育てられているというマタギの姿はなかなか伝えることが難しい部分です。世界的にみても、定住しながら狩猟文化を育んでいるのはマタギだけだという人もいました。他の狩猟文化は遊牧民的に獲り尽くしたら移動する、獲り尽くしたら移動するの繰り返しです。それから、人間や自然、動物は同等のものだと認識することが重要だと思います。熊や動物は人間たちと同じなんです。ひとくくりに語れるものではありません。熊は一頭一頭、ほんとうに性格が違うんです。なので、一頭一頭対処方法が変わってきます。熊だから何が何でも駆除をしろ、という圧力が一昨年、昨年と強くなった時期もありましたが、人間を襲った熊は殺されるべきかどうかという問題は、熊を襲った人間は熊に殺されても仕方がないかという問題と同じなのです。動物は人間よりも下等な生き物だと、多くの人は思っているかもしれません。しかし、こと山の中になると動物の方がはるかに賢い生き物だと思い知らされます。

質問7. いつ、どのようにして、なぜマタギになりましたか?マタギになる方法について教えてください。


私は6年前に狩猟免許を取り、猟友会に入り、色々なことを教えてもらっています。家の周りにも熊が出没するため、家族の身を守るために銃をとった部分が大きいです。

質問8. マタギ文化を外部の人に発信したいと思いますか?発信したい、または発信したくないのはなぜですか?誰に発信したいですか?(県内・県外)


不特定多数に発信したいとは思いません。まず、その人となりを見て、信頼できる人にだけ伝えていきたいと私個人は考えています。雑誌やテレビなどのメディアの取材が一時期とても増えましたが、害になることばかりで特に良い変化は見られませんでした。最近では日本のテレビの取材は全てお断りしています。何度説明しても日本のテレビでは熊狩りの一面のみが取り上げられるからです。センセーショナルですし、映像としても迫力があるので仕方のないことだと思うのですが、それは11月中旬から12月中旬と、4月下旬から5月上旬まで(生息数調査、予察駆除)の本当に短い間の姿なのです。それ以外では熊追いは行いません。テレビ東京の番組ではウサギ追いと説明していたのに、本放送では熊狩りとして紹介され猟友会からお叱りを受けました。日本のテレビ局って本当に目先の視聴率以外考えていないのだなと思い知らされた出来事でした。

質問9. マタギ文化を継承していく上でどのような課題がありますか?文化継承のためにどんな取り組みを行っていますか?(地域や県と連携しているのか)

狩猟はお金にもならず、危険をともないます。私の住んでいる北秋田市根森田集落では80人ほど住んでいますが、狩猟者は私ひとりだけです。昔から住んでいる人は、山に入るのは怖いからやりたくないと言っています。森吉猟友会もかつては150人を超えていましたが、現在は21人しかいません。
猟友会は、銃やわな、網などの狩猟免許保持者による団体で、野生鳥獣の駆除や保護に取り組んでいますが、くくりは趣味の団体です。有害駆除は市や県の指示のもとで常におこなっています。勝手に狩猟はできません。環境省の発表では、狩猟免許の取得者数は1976年の約51万8000人をピークに減少傾向にあり、2014年にはおよそ19万4000人と40万人も減っています。平成28年度に秋田県で狩猟者登録をしたのは1670件。第一種銃猟は1511件。50歳以上が9割。20歳代は1%、30歳代は3%しかいません。野生動物による農作物の被害額は秋田県は他県に比べると圧倒的に少ないのですが、それも間もなく崩れ去るといわれています。平成28年度、秋田県の被害額は4500万円、山形県は5億9千万円、岩手県は3億9千万円の被害でした。岩手県の場合はほとんどがニホンジカによるもの。秋田県では徐々にシカが増えてきています。それを猟圧で適切に対処できるのは狩猟者しかいません。行政も補助金を出したり、狩猟フォーラムを開催したりと若者の獲得のため、様々な取り組みを行っています。北秋田市では文化継承のためにマタギ見習いとして地域おこし協力隊を募集しました。私自身は少数の人向けにこの地域の狩猟文化や自然に対する考え方を伝える宿屋として、その文化を知って心に留めてもらうことでマタギ文化が途絶えることのないように、少しでも理解してもらえるように活動しています。生活のメイン、主たるものというよりは、根本にあるものという感じです。

質問10. マタギとして、若者にどのようなことを伝えたいですか?(教訓など)


現在、当宿を訪れる外国人観光客は険しい山の麓で日本人がどのように生きてきて、マタギ文化だけではなく、そのさらに原点である1万5千年以上前の旧石器時代から継承してきた考え方や自然との向き合い方に興味津々です。特に「自然や動物との共生のあり方」「文化継承のための取り組み」というのは世界共通で、これから増々重要になってくるものなのかもしれません。マタギについて考えていると、人間の引き起こす問題の多くは「カテゴライズ」することに起因するものが多いと感じています。何でも枠にはめて、分かったような気になりたい性質なのでしょう。しかし、自然や動物のことになると分からないことだらけなのです、その分からないものを分からないまま持ち続ける力がマタギにはあると思います。そして、線引きをするのではなくお互いの領域をまたぎ、にじみの部分を作っていく働きがあると思います。不安定なものを不安定なまま保持し続けること、安易に結論を出すのではなく、人間の短い時間ではなく、自然の長い長い時間感覚で考える術を知ってもらいたいです。今日は遠いところお越しいただき、誠にありがとうございました。

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