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意味の向こう側

私は山と共に生きています。いや、まだ理想とする生活には程遠いですが、ほふく前進でジリジリと進む毎日です。


昔気質の宿を営み、狩猟免許を手に、日々、山そのものに身を置いて過ごしています。

なぜ山へ足を向けるのかと聞かれると、いつも一言では答えられません。

美しい風景や、頂までたどり着く達成感、それらも確かにあるけれど、それだけでは心が満たされないのです。

私にとって、山を登るという行為は、見えない問いかけへの旅でもあります。

どこから来て、どこへ行くのか。

生きる意味は何なのか。

そうした問いを抱え、山の中を黙々と歩くうち、私はいつしか「意味の向こう側」について考えているのではないかと思ったのです。

それは、かつて出会った狩猟者たちの文化から得た大きな気づきです。

特にマタギと呼ばれる人たちは、東北や北海道の深い山里で、古来からの厳粛な掟に従い、熊やカモシカを追ってきた人々です。彼らは単に糧や獲物を授かるためだけに山へ入るのではありません。

狩りに先立つ祈り、そして成功と失敗に対する感謝や反省。そのひとつひとつの行いに、自然への畏敬が染み込んでいるのです。

マタギは、山を征服するのではなく、山と共に在り、山から生きる術と意味を授けられる存在。獲物は食料であり、生業であり、同時に、自然が差し出す意味そのものなのかもしれません。

私がマタギに惹かれたのは、彼らが自らの価値観を自然から受け取ろうとしている点でした。

人間社会の都合や常識、自分でこしらえた目標や理屈は、山ではあまり役に立ちません。

積み上げた論理が、吹き降りる風や、足元の苔の湿り気、遠くで響く動物の気配――そんな「外部の意志」の前でいとも簡単に崩れ去る。

その時、私たちは初めて、自分が自然の脈動のごく一部でしかないことを知ります。

そして、その小さな一部だからこそ、自然に耳を澄ませ、自らの存在意義を見直せるのです。


山に入ると、嫌でも自問自答が始まります。

「なぜ生きるのか」

「何を求めているのか」

身勝手な欲求で押し通そうとしても、足元の土は滑り、体力は尽き、思い通りにならないことばかり。

けれど、逃げ場のない静寂のなかで、ふと悟る瞬間があるのです。

「生きる意味」とは、自分が決めるものではなく、もっと大きな流れの中に差し込む微かな光を感じ取ることなのではないか、と。

自分の内側で答えを固める代わりに、自分以外の存在――人々、社会、そして何よりも自然へと心を開いてみる。

すると、自分を超えた新しい次元に踏み込める気がしてきます。それが私の言う「意味の向こう側」です。

「意味の向こう側」とは、一歩外へ出ることです。自分だけの考えや理屈を越えて、外界に溢れる声に耳を澄ませること。

降り続く雨、季節外れの雪、晴れ渡る青空、鳥の囀り、獣道の匂い、そして風の冷たさ。

そうした全てが、私たちに何かを伝えようとしている。その伝言を受け止めることで、私たちは己をわざわざ主役に据えずとも、自然の物語の一端として命を輝かせることができるのではないでしょうか。

山を歩くとき、意識はしばしば途切れそうになります。

息は上がり、
足は鉛のように重く、
なぜここまで苦労して登るのか、
判らなくなってくる。

それでも歩みを進めるのは、頂に立った瞬間にただ「絶景」に圧倒されるためだけではありません。そこには眼に見えない何かが宿っています。その場に立って、目を凝らせば、ただの風景以上の「意味」に触れることがあるのです。

この探求は果てしなく続くでしょう。

私もこれから何度も山へ入って、自然と対話を続けます。

言葉にならない理由で惹かれるこの世界に、私は謙虚に耳を傾け、受け入れ、学びつづけたい。

答えが明瞭に見えなくても、自然と共にある手応えだけは、いつだって胸の奥で小さく鳴り響いています。

もしあなたも、足元の小さな野花や、水滴の揺らめき、木々のざわめきに心を開いてみるなら、あなたなりの「意味の向こう側」に触れられるかもしれません。

本日も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。一緒に山を歩ける日を夢みて。

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