誰が言うか、何を言うか
この前、久しぶりに実家の近くのラーメン屋に行ってきた。私が幼いころからご夫婦でお店をやっていて、幼稚園か小学生のときには、帰り際にアイスをもらって嬉しかった記憶がある。ある程度の量が食べられるようになってからは、たいていは半チャンラーメン(半チャーハンにラーメンのセット)を食べていて、途中からそこに野菜炒めとラーメンや、ネギミソラーメンがオーダーに加わった。
どれも美味しくて大好きな店なのだけれど、時折残念な気持ちになるときがある。お店のご夫婦が喧嘩をしているときだ。
たいていの喧嘩がそうであるように、きっかけは他愛のないものだったように思える。もちろん私が来店したときのことしか知らないので、それ以外の時間で何があったのかはわからない。ただ、私の来店時に起きていることだけでいうと、沢山の来店客の応対と調理を狭い厨房のなかでやるには2人が連携を取るのは不可欠で、そこに少なくないストレスが生じていたように思えた。
たまにある喧嘩のときは、少し、味が落ちている気もしていた。
私が実家から離れてからは年に数回程度行くくらいになってしまった。ご夫婦も、喧嘩というより、耳が遠くなってしまってオーダーが通りずらくなったりしていて、できる限りお店を続けてほしいなと思っていた。
そんななかこの前行ったら、ご夫婦に娘さんが加わっていた。娘さんは元気に客と話して、ご夫婦にもビシっと指示しながらお店を切り盛りしている。その指示がご夫婦同同士のやりとりだったら確実に喧嘩になっているだろうに、娘さんからの強い指示にはどちらも粛々と受け入れて業務をしていた。
代り映えした店のオペレーションをみていて、これが「何をいうのか」「誰がいうのか」問題かと気づいた。
ご夫婦でやっていた時も、互いの指示要望は正しいのに、互いに受け入れられずギクシャクしてしまっていたのに、娘からの指示は問題なさそうに受け入れている。何なら娘の言い方のがずっと鋭いのに。
たとえ正しいことを言っていても、「誰が言うか」で受け入れ方が変わるのだ。
自分の仕事での関係で当てはめると、ついつい「べき論」で考えてしまい、受け入れる側に対して、「何を言っているか」を正しく判断して受け入れるべきだと考えていた。一方で、「誰が言うか」で動く人は、合理でなく感情で動く、自身の軸がない人のように思えていた。
ただ、自分も家族で考えてみると、「誰がいうか」で動きたくなる/動きたくない気持ちは容易に想像できる。
家族経営のラーメン屋だと、仕事も家族もほとんど区別がつかない。「誰が言うか」を重視したことで起きたいたご夫婦の喧嘩は、娘というファクターが加わることで、「何を言うか」ではなく「誰が言うか」に従うままで問題は解決できた。
私がすることは、「何を言うか」を重視するよう強いるのではなく、「誰が言うか」を重視する人がいても問題を解決できる方法を探ることだった。
自分がどう仕事を捉えるか、どう考え動くのか、ということと、他人が仕事をどう捉えてどう動くのかということは、何ら関係性はない。
自分がどう考えるかを基準にせずに、ただその人がどう考え動くのかを見極めて、自分がすることを決めることが肝要なのだと気づく。