嫉妬深さと野外の井戸は、底深いほど汲み難し。

足を揚げるな、名を揚げろ

 ほんの些細な言い間違いで、温かい笑いが起こる場を私は知っている。
 それは寄席であり、落語に出てくる連中は、それはもうほぼ毎日、言い間違えているし、勘違いしている。ついでに、落語家さんが噛もうが、言葉に詰まろうが、言い間違えようが、気にしない観客の方が多い。それはなぜかと言うと、話を楽しむ余裕があるかであろうし、そもそも気にするほどのことでもないからであろう。
 落語に出てくる八五郎という人物は、隠居さんから教わった『つる』の名の由来を勘違いして覚えて滑稽だし、『新聞記事』では物語のオチを先に言われて悲しむ。由緒正しき武家屋敷に言っても、礼儀知らずで無調法。それでも、愛すべき人間である。
 ところがどっこい、一歩、SNSの狭い狭い世間とやらに目を向けてみると、鬼の首を取ったように言い間違いを攻めているものたちがいる。そんな連中の思いの中心には、「偉そうに言ってるやつが、こんな字も言い間違えるのか!」という怒りと嫉妬の思いがあるのだろう。
 放っておけばよいことである。これまでの人生で、一度も言い間違いをしなかった人間なんていないのである。都合よく、自分が言い間違いをしたときの記憶を消して、あるいは、脇に置いて人を責めるのだから、なんとも自分勝手で良い性格をしている。素晴らしい長所である。私にはできない。
 言い間違いを責める人は、嫉妬深いのだと思う。偉い立場にいる人間が、偉そうに知ったような口で何やら発言し、そのくせ読み方を知らないなどとは愚かなことだと、蔑んでストレス解消をしたいのだと思う。
 と、ここまで書いて、ひょっとすると以前にも書いたかもしれないという思いが沸き起こってきた。だが、とりあえず書く。
 そのような嫉妬深さというのは、井戸に似ている。それも、野外の井戸。誰の目にも明らかな井戸である。だが、ひょいと井戸を覗いてみると、深いほどに、水を汲むのが難しそうだと分かる。もっと言えば、井戸に落ちたら死んでしまうかもしれない、という恐怖さえ感じさせる。
 嫉妬深い人の気持ちを汲むのは、深い井戸から水を汲むのと同じくらい大変なことだ。SNSには溢れんばかりの嫉妬が渦巻いており、意図せず、そのような人々の嫉妬深い言葉に出会ってしまうと、井戸に落っこちてしまう。良くはないなと思いながらも、ついつい、その井戸に一滴、何か良いものを落として洗浄してしまいたくなってしまう。井戸は、嫉妬深い井戸そのものは、放っておくに限るであろう。
 そもそも、ちゃんと調べれば、言い間違いではないようである。一般的に使われている言葉が、それはそれはご立派な、たいそうな言葉ではあるが、究極、意味が伝われば、それは大体もう、オッケーなのである。
 もちろん、正確に言葉を使わなければいかん!と目くじらを立てる者もいるだろうが、そこは人間、欠陥品だと諦めよ。

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