一品勝負

「俺にはよぉ。良いところが一つもねぇっていう良いところがあんのよ。
大体よぉ。人間ってのは良いところと悪いところがあるっていうだろう?
だけどよぉ、俺には良いところが一つもねぇんだ。
もちろん、悪いところも一つもねぇんだ。
よくこれで俺も生きてられるよなぁ。自分でも不思議で仕方ねぇさ。
ぽんっと生まれちまったからにはよぉ。
良いところが一つもねぇっていう良いところを伸ばして伸ばして、
トントンってよぉ。包丁で細く切ってよぉ。
蕎麦にでもして食いてぇなぁ」

峯岸達夫『ドン底どん兵衛一代記』

 寒くて眠かった。冷蔵庫を開けたままのような雰囲気が街中に満ちていて、早く閉めなければ夜中に食べるヨーグルトが発酵して腐るのではないかとさえ思った。というより、冷蔵庫の中よりも外に出しておいた方が冷えるのではないかと思えるほど寒かった。家を出た途端に風呂に入りたいと思ったほどである。
 ずっと眠かった。年末だし、慌てることは特に無い。時間はゆったりと流れている。寒くなってくると、みんな諦める。ちょうど、一年が夜を迎えるみたいに、みんな眠くなって、眠る準備に入っている感じである。10月11月で眠るためのヤクルトとか、腸に良い物は摂取したから、12月は布団に入ってぬくぬく寝るだけでOKみたいな感じなのである。
 12月になって慌てふためいて、重大な任務を急いで片づけるというような忙しなさは無い。むしろ、年が明けてからの方が忙しい。「やり残してること、3月末までに全部やっちゃいましょ」という感じで、根詰める3ヶ月がやってくるが、今はそんなことを考えない。鬼を笑わせないのだ。
 
 それはさておき、東京に来てかれこれ5年が過ぎようとしている。
 
 あっという間であった。振り返れば何事もあっという間である。
 人生もきっとそうなのだろう。あっという間に終わってしまうのである。
 あっという間に、全てが過ぎ去っていく。
 去る者もいれば、会う者もいた。もちろん、私は友達が少ないから去る者の方が圧倒的に多いのだが。
 つくづく思うが、友達は少ない方がいい。面倒な関係も生まれないし、無駄な出費もしないし、煩わされることもない。本を読んでいる時間や、一人でぼんやり景色を眺めている時間の方が、それを誰かと共有している時間に比べて遥かに有益であるようにさえ思える。だが、完全には他者との関係を断ち切ることはできない。接触時間を限りなく減らすことはできても、完全に誰とも関わらずに生きていくことは難しい。
 PC画面を眺めて株のトレードだけしていれば、人間とは一切関わらずに生きられるかもしれないが、残念ながら、私にはそのような技量も蓄えもないから、それを達成することは難しい。
 12月になると、終わりと始まりを考えるから不思議である。

 思えば、この一年は不思議な年であった。
 さまざまに、自分にとって興味深いものは何かを考える年だった。
 それと並行して、ヴォネガットの作品を刊行順に読み進めた。
 途中、仕事が忙しくなってヴォネガットから離れたが、一段落して再び読み始めると、まさに、そのタイミングでこそ読むべきであると思えるような言葉に出会い、奇妙な偶然か勘違いだとは思うが、やはり良き言葉というのは来るべきときにやってくるのだと思った。
 ヴォネガット作品を読むと、また一つ世界の面白さが広がって行く。
 ヴォネガット自身の想像力の凄まじさは、今なお、現代に響くものがあるし、生きることや、金持ちになることや、平等や、人との接し方など、ありとあらゆる皮肉な、そして強烈な教訓のようなものが小説には込められているように思える。
 ヴォネガット作品に触れる前年には、モームの『月と6ペンス』が響いた。モームの作品を読んだ興奮が2022年へと引き継がれて、ヴォネガットの作品を通じて自分の生き方を考えるというような一年になった。モームとヴォネガットの作品に触れられたことは、とても人生に役立った。
 がむしゃらに、訳も分からず、東京での生活が5年を過ぎようとしている。残すはあと一ヶ月である。おかげさまで投資も順調だったし、サックスも上達したし、証券外務員1種も取り、落語会も開いた。小さくとも、バズらずとも、楽しい一年であったことは間違いがない。
 やりたいことはたくさんある。それを、ケーキにかぶりつくみたいに楽しむよりも、私はちびちびと、けち臭く、楽しんでいきたい。そのような楽しみ方が自分の性に合う。きっと、ケーキにかぶりついて口いっぱいにケーキを頬ぼったら、飲み込むときに誤って喉に詰まって窒息するだろうから。用心して、美味しいイチゴだけは最後に食べるみたいに。楽しさを味わっていく。

いいなと思ったら応援しよう!