「ごめんなさい」を見たい人々の食卓で死んでいる牛肉の味の薄さ

「地球上のあらゆる生き物は、自分以外の生き物が自分に屈服する姿を見ることで快感を得るようにできているんです。はじめは殴った相手が泣きながら謝ってくる姿を見て快感を得て、次は石ころを投げて傷つく相手が謝ってくる姿を見て快感を得て、言葉が生まれてくると、弁論が主たる武器となって、言葉で相手を屈服させることで快感を得てきました。
 今日のネット社会も、それとまったく同じことが起きているのです。人間は言葉で相手を屈服させ、快感を得たいのです。暴力は法律によって禁止されていますから、数は減っていますが無くなりはしません。言葉で相手を屈服させるか、暴力で従わせるか。人間というのは、本当に醜い生き物だと思いませんか。マダム」
 サディースト博士の言葉を聞いて、恰幅のいいマダムはにこやかに笑いながら、
「それで?私の頼んだケーキはまだかしら。お腹が減って死にそうですわ」

峯岸達夫『謝罪部屋の生殖器たち』

 なぜ人はそんなに謝らせたいのか
 SNSを見ていると、首相の支持率が下がったということと、チェンソーマンが人気であるということが分かる。前者に関しては、とりわけ多くの人々が現在の首相を攻め立てており、ほとんどの人が首相を支持していないらしい。未だかつて圧倒的に国民から支持された首相というものを私は知らない。というか、支持されて首相になったにも関わらず、あっという間に支持されなくなるというのはどういうことなのだろうか。
 基本的に、世論というのは参考程度にしか私は見ていない。別に日本の国民に対して自分ができることは無いから、身の回りを自分にとって心地よい環境にすることくらいしか、私にできることはない。だからニュースを見ても、「また首相、交代かな」くらいにしか思わない。
 後者に関しては、人気アニメと漫画は見ないと決めているので興味がない。みんなが騒ぎ立てているものは基本的に見ない。自分の中にこれと言って基準があるわけではないが、ある一定の知名度を得たら、あっという間に興味を無くしてしまう性格である。ディカプリオが25歳以上の女性と付き合わないという鉄則を持っているように、私には「人気になったものは推さないし、語らないし、基本的に見ない」というスタンスを貫いている。
 ゆえに、のめり込みすぎるということがない。否定するわけではないが、鞄に推しのキャラのピンバッチやら缶バッチを付けたり、推しのタオルやらグッズで部屋中を埋めるということもない。そもそも部屋をなにかデコレーションするということに興味がないのだ。部屋を汚しているとしか私には思えないのである。
 人間にも、様々に趣味趣向があるから一概には言えないが、「人が謝る姿を見たい」人は一定数いるのであろう。Twitterのような場所は、そういう人がたむろする場所であると私は思っている。距離を置きたいという人ばかりで溢れており、年齢が知りたいくらいである。一体、どのくらいの年代の人間が、ネット上でしきりに文句を言っているのか。
 むしろ、そのようなことに脳のメモリを使える方が凄いと思う。寝るときにすら、憎き相手の顔が浮かぶのであろうか。私はそれを決して幸せな状態とは思わないが、中には憎み続ける、声を上げ続ける、それで一日、大満足。という人もいるのだろう。
 
 今日のような激しい雨のように、ザーッと降っては静かになり、またザーッと降っては静かになるを繰り返して行くのだろうか。やたらと人は一気に責め立てては消え、責め立てては消えを繰り返しているように思う。そのように責め立てることのできる問題が世の中に存在していて、良かったですねという気持ちになる。
 何かを変えようと問題意識を声高に叫んでいる人もいれば、諦めている人もいる。そんなことからまったく関係ないところで問題を抱え悩んでいる人もいれば、何の問題もなく自由に暮らしている人もいる。それで良いのだと思う。なるべくなら、自分に関係のないことには口を突っ込まないように生きていきたい。
 とはいえ、私はいつでも鴨長明のような生き方ができる人間なので、どこかのタイミングでは、そのような生き方になるであろう。他人からは「不幸な人生だった」と言われようとも、関係ないのである。私は私自身が自分の人生を幸福だと捉えていれば、それでいいのである。今日も牛肉がとても濃く、美味い人生だったし、使っていなかったギターの修理が終わるのが待ち遠しいし、サックスもどんどん上手くなりたくて練習する。幸福な一日だった。

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