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振り返る2024


「現実の中に夢を見るのではない。夢の中に現実を見るのだ。そうやって我々は夢を現実に顕現させるのである。夢を見ない者に現実を変える力はない。夢を見る者だけが現実を変えるに値するのだ。だから我々は意識無意識に関わらず夢を見る。そのように設計されている。我々は現実を夢に近づける。見誤ってはならない。現実にあるものは全て、あなたが見た夢に端を発しているのだ」

峯岸達夫『ド・リームの夢』

振り返れば2024年がいる

 誰にでも平等に与えられる時間の筈なのに、自分に与えられた時間が早く過ぎ去るように感じられるのは、自分自身の時間に対する感覚が鈍くなったからだろうか。単位として区切られた曲を聴いても、一日をどう過ごしても、どこかあっという間に過ぎていく感覚がある。気のせいだと片づけられるものではなく、むしろ確かな実感を伴っているから不思議だ。
 一年という区切りに対しても、振り返ればすごい速さで過ぎ去ったという印象しかない。1月~12月までの間に私は何をしていたのだろうか。こんなにも早く過ぎ去った一年で、私は何をしたのだろうか。
 ざっくり言えば飯を食って、用を足して、眠っただけの日々に過ぎないのかもしれない。それでも、確かに私は年を取り、場所を変え、こうしてパソコンの前に座って文字を紡いでいる。
 2024年を始める前に、私が考えていたことは『挑戦』をするということだった。ただそれだけの言葉に突き動かされて、私はこの一年を過ごした。では、さっそく1月から振り返ってみることにしよう。

1月~オーストラリアで迎えた新年~

 2024年の幕開けは、新年を祝う特大の花火から始まった。ボタニカル・ガーデンのすぐそばにあるミセス・マッコリーズの椅子の近くで、私は見ず知らずの人たちと一緒に、朝早くから場所取りをして新年まで待機していた。色彩豊かな花火に彩られたオペラハウスとハーバーブリッジを見つめながら、人生で初めての夏の新年を迎えた。
 それまでの新年は、日本は冬の季節であるから寒かった。身が震えるほどの寒さの中で、ようやく一年が終わるという気持ちになることに慣れていたから、温かくて過ごしやすい新年というのは不思議だった。まだ一年が終わらないのではないかと思った。寒くならなければ一年は終わらないというのが私の感覚だ。
 豪華な花火を見ながら、私はオーストラリアの地に来た幸運に感謝していた。良い人に巡り合ったし、仕事も手にすることができて、不自由のない日々を過ごして新年を迎えることができた。今振り返っても、幸運なオーストラリア生活だったと間違いなく言える。
 仕事もお得意様に呼ばれるようになって、色んな重い荷物を運んだり、色んな場所に行くことが多かった。朝は相変わらず早かったが、異国の地で働ける喜びに勝るものはなかった。
 そうして、気が付けば2月になっていた。

2月~神秘なるマンリー・ビーチの日の出~

 2月になってからの幸福と言えば、マンリービーチの目の前で仕事が出来たことだろう。何よりも忘れられないのは日の出である。雲一つないマンリービーチの日の出ほど美しい日の出に出会ったことはない。今後の人生においても、あれほどに神秘的で感動する日の出に出会うことはないかもしれない。それほどに衝撃的な日の出だった。
 マンリービーチ前のホテルの解体に伴い、ホテル内のガラクタや瓦礫をとにかく運んだ。肉体労働だったが美しい景色が疲れを全て吹き飛ばした。もう一度見たいと思うほど魅力的な光景がマンリービーチにある。

3月~様々な国の祭りに参加~

 3月はオーストラリア以外の国のイベントに参加することが多かった。移民が半分を占める国であるだけに、アイルランドのお祭り、インドのお祭り、LGBTのお祭り、イースター・ショーなどイベントが盛りだくさんだった。仕事での貯金も十分に出てきた頃で、大いに散財した。Facebookなどで知り合った人と一緒に出掛けたりするなど、それまで仕事一本だった生活が一気に華やいだ。
 初めてオペラハウスの中に入り、ヴィキングル・オラフソンの『ゴルトベルグ変奏曲』を聴いたり、地元のライブハウスでモンゴルのThe HUというバンドの演奏も聞いた。オーストラリアの地にいながら、様々な国の文化に触れることが出来た経験は、オーストラリア生活の中でも特筆すべき点だったと言えるだろう。
 2023年に留学先で知り合った友達に再会してお祭りを楽しんだりして、楽しさが一気にブーストした。素晴らしい職場にも恵まれ、アルゼンチン出身のカロリーナと出会ったのも3月である。
 それまでの大変な仕事生活が一変して、文化的で豊かな生活に様変わりしたターニング・ポイントとなる3月だった。

4月~激戦の初ラグビー観戦、ジャズ鑑賞とシアターで演劇鑑賞~

 オーストラリアと言えばラグビーだろうと思い、ニューサウスウェールズ州のワラターズのチケットを購入。アリアンツ・スタジアムで観戦した。普段、スポーツ観戦を一切しない私だったが、ラグビーやアメフトだけは好きでたまに見ることがあった。このワラターズVSクルセイダースの試合が信じられないほどの激戦で、点を取っては取り返し、最後の最後で同点にもつれこんで、最後は見事に地元チームのワラターズが勝つという素晴らしい試合だった。試合後に観客たちが口々に「What a game!!!!」と興奮していて、初めての生ラグビー観戦は記憶に残る凄まじい試合になった。
 職場の人たちにも素晴らしい試合の様子を伝え、数日興奮が冷めなかった。何とも幸運な盛り上がる試合を見ることが出来た喜びに震えた。
 文化的な生活にのめり込み、老舗のジャズ・クラブでジャズ演奏を体験したり、劇場へ行って演劇を楽しんだ。英語はところどろこ分からなかったが、全体を通したストーリー展開、演者の熱量を感じながら素晴らしい時間を過ごすことができた。
 結局のところ、お金が出来ても私自身は演劇や音楽を楽しむというような使い方しかしないのだろうと改めて思った。最近になってようやく物欲がふつふつと湧き始めているものの、Netflixで映画やドラマを見たり、落語を聴いたりなどして過ごすことが、何も仕事をしなくなったら手を出すことなのだろうと思った。今後どうなるかは分からないが、優れた芸術に触れることが私にとっては何よりも楽しいことなのだと思った。

5月~ミュージック・マンス&ViVid Sydney~

 5月は正に『音楽月』と呼ぶにふさわしいほど、ミュージシャンのライブに参加した。ニック・ケイブのソロ・コンサート、The Vaccinesのライブ、イングウェイ・マルムスティーンのライブ、Synthonyというシンセサイザーとシンフォニーが融合したライブに参加し、その圧倒的な迫力に興奮しまくった月だった。
 勢いそのままにViVid Sydneyに突入し、興奮の連続によっておかしくなるのではないかと思うほど楽しかった。もはや楽しい思い出しか残っておらず、細部の記憶はところどころ曖昧である。
 Vivid Sydneyのお祭り感は、思い出す度にワクワクする。それまで見ていた風景が一気にVividになり、怪しげな雰囲気と色気に満ち溢れていて、どこか妖艶でありながらも、人間が生み出す魔法のような景色がそこかしこに溢れていて、最高に楽しい一ヶ月だった。

6月~引き続きVivid Sydney&再会。サモアとチュロスと初舞台~

 Vivid Sydneyを堪能しているうちに6月になり、2023年に出会った友達が久しぶりにSydneyに戻ってきて再会を楽しんだ。Vivid Sydneyを楽しんだり、ワインを飲んだり、ピザや美味しいパスタを食べたり、酔っ払い過ぎて寿司を奢らされ、そんなに美味しくないペンネを食べ、公園でアコースティック・ギターで演奏をしたのも思い出深い。その翌日から両親と妹がやってきたのだが、思い切り風邪を引いてしまい、薬に頼りながらVivid Sydneyを楽しんだ。楽しみ過ぎると風邪を引くのだ。
 ホテルのワンフロアを貸し切ったライブに出演し、そこで二曲歌った。色んな出会いをきっかけに、シドニーでライブをすることが出来たのも思い出深い。何よりも、オーストラリアで生活をして順風満帆に行っていることの幸運を噛み締めた月でもあった。
 どこかで怪我をしたり、仕事が見つかっていなかったら、こんな幸運は享受できていなかった。どれか一つでも欠けていたら、起こりえなかったことだ。夢破れて日本に帰っていた可能性も大いにあったのだ。それでも、多くの人に出会い、楽しんで2024年の6月を迎えられた。残り2カ月と迫る帰国に向けて、悔いのない日々を過ごすことができたのは、全て幸運な出会いによるものだと思っている。
 サモアのお祭りに参加したり、美味しいチュロス屋を見つけて味わったり、3月からブーストされた日々が実に楽しかった。

7月~災いを振り払って福を呼ぶ~

 5月から新現場に配属されており、シドニーの中心街で仕事をしていた。あまりスーパーバイザーとそりが合わず、7月に入ってからとうとう突き放された。それまでの2カ月ちょっとの間、よくもこき使ってくれたなと苛立ちながらも、すぐに新現場に行くことになった。
 それが、何と泊まり込みの現場だった。幸運なことに一人部屋が与えられ、オーストラリア生活で初めて一人で眠るという体験をすることができた。正に災いが福に転じた瞬間であった。
 同時に、モンゴル人に貸した金の件でトラブルがあった。結構なお金を利子付きで貸していたのだが、土壇場になって支払いが遅れるだの、何かと言い訳を付けて返そうとしない態度を示した。何とかお金を返してもらえたのだが利子は払われず、結局、そのモンゴル人とは絶縁となり、二度と他人にお金を貸すことはしないと決意した。それまでの私は、信頼できる人には金を貸すことがあった。ちょうど、フィリピン留学の時にお世話になった先生に金を貸してくれとメッセージが来たが、モンゴル人の件もあって断り、関係を切った。今後は金を貸してくれという人との縁は問答無用で切る。
 そんなこんなで、色々とあった7月の間に、嫌なものは全て断ち切るようにした。もう二度とお金を貸したモンゴル人の顔を見たくないし、私にだけ文句を言い続けたスーパーバイザーとも出会うことはない。
 オーストラリアを去る前にどうしてもマンリービーチが見たくなって、日の出を見て、最後にオーストラリアでしか買えないトミー・バハマの洋服を買い、オーストラリアに来てからお世話になった先輩カップルと中華料理屋で時間を過ごした。
 思い返しても本当に幸福なオーストラリア生活が終わった。

8月~帰国と平塚ブルース、赤坂の夜は更けて~

 帰国後は、おむすびチャンネルというプラットフォームで出会った人々に招かれて、平塚で学生時代に戻ったかのようなどんちゃん騒ぎ。一年ぶりの帰国を温かく迎えられて、自作曲の『平塚ブルース』をみんなで歌いながら平塚の海を堪能。改めておむすびチャンネルの素晴らしさ、人の温かみ、そして日本の良さを実感した。
 大好きな落語家の落語会を見に行ったり、東京を楽しんだり、赤坂の某M's バーでおむすびチャンネルの集いを楽しんでいるうちに一ヶ月が過ぎた。
 オーストラリア生活に慣れた体はすっかり色んなところが異常になっていたので、健康に気を遣わなければと気を引き締めようと思ったのだが、なかなか意志が弱いまま、だらだらと贅沢を貪った。

9月~岩手観光、そして初ヨーロッパ。スイス・ジュネーブへ~

 クラウドファンディングで寄付した団体のイベントを楽しみに思い、スイス行きを待つ間に岩手を観光した。オーストラリアで出会った友達が岩手に住んでおり、一週間、友達と会って岩手を思う存分楽しんだ。
 友達は本当に良くしてくれて、オーストラリアの時は私が非常に面倒を見ていた分、友達の親切さには感動した。地方に友達がいると一気に観光が楽しくなるなと思ったので、都道府県に一人ずつ友達を作ろうかとさえ思った。それほどに楽しい岩手観光だった。
 ようやくスイス行きが決まった。スイス・ジュネーブで開催される日本祭りにボランティアとして参加するため、航空券とホテルを取った。
 自分自身にとっても、クラウドファンディングを通じて初めて応援しようと思った団体だった。活動したいという思いと文章に心打たれ、また初のヨーロッパということもあり、繋がりを持っていたら楽しめるだろうと思った。
 この出会いが正に10月をさらにブーストさせた。詳しくはスイス漫遊記などを読んでほしい。素晴らしい出会いによって最高の日々を過ごすことができた。

10月~ヨーロッパ漫遊~

 詳細はスイス、フランス、リヒテンシュタイン、ドイツ漫遊記に書いているのだが、自分の人生における初めてのヨーロッパ旅は生涯忘れられない体験となった。中でも、シャモニーの雪山、Sionの壮大なる景色、リヒテンシュタインの橋、そしてミュンヘン、シュトゥットガルト、フランクフルトのドイツ旅は信じられないほど楽しかった。
 オーストラリアでは肉料理ばかり食べていたが、ヨーロッパは幸いにもサラダバー的なものがスーパーにあり、サラダをメインで食べた。一日2万歩以上歩き、非常にダイエットにも効果があったと思う。
 宿もオーストラリアの頃と比べて格段に良かった。時折、変な住人はいたが概ね良好だった。曇りと晴れの日が半々くらいの確率で、天候に左右されつつも非常に楽しい旅をすることができた。また行くときは一人ではなく誰かと行きたいと強く思った旅だった。

11月~地獄のような時差ボケに悩まされて~

 11月の頭に帰国したのだが、そこからの時差ボケに苦しめられた。身体が全く日本の時間に順応せず、2週間、3週間とどうにも調子が悪かった。
 それでも、なんとなく湧いてきた物欲と、日本で暮らすならどの辺が楽しそうだろうと思い、オーストラリアに行く前から考えていた福岡から求人の誘いがあり、書類選考と面接をしてするすると次の入社先が決まった。来年からは福岡での生活が始まることが決定し、この記事を書いている今も楽しみで仕方がない。幸運なことに福岡に知り合いがいるため、どのような生活ができるかワクワクしている。

12月~散財・散財・また散財~

 次の仕事先が見つかると、どうせ給料が入ってくるのだからと思い、様々なことに散財をした。革ジャンなどの洋服を買ったり、家族にお土産を買ったり、時計にハマってお洒落で安い時計を買ったりと、散財ばかりしている。さすがにお金を使い過ぎていると思いセーブしている。服や時計を身につけるにしても、身体がたるんでいては話にならないだろうと思い、最近は毎日10km走るようにしている。昔は結構余裕で走れていたのだが、今はあまり無理をしないようにのんびりと歩くようにしている。
 そんなこんなで、もうすぐ12月も終わろうとしている。2025年の抱負はまた年が明けてから書くことにする。

2024年総括

 と、ざっと振り返ると楽しい一年だったということに尽きる。自分で望んでオーストラリアの地に降り立ち、様々な出会いに恵まれた。きっと会社を辞めて挑戦することを選んでいなかったら、出会えていなかった人達に出会えたことが私にとっては一番大きな財産である。だから、この出会いを大切にしていきたいと思う。
 私自身は、それほど出会いに対して熱心な方ではない。行動した結果、たまたま巡り合うくらいの気軽さの方が楽でいい。どうにも、自分から「うおおお、新しい人に会うぞぉおおお」という情熱を持っているわけではない。なんとなく「あっ、こんにちは」くらいの関係性から、徐々に徐々に深い関係になっていけたらいいなと思う方である。
 というのも、オーストラリアで過ごしている中で「なんか変だな」という人もいっぱい見てきた。どうにも波長が合わなそうだと思う人と距離を置くようになった。さすがに私ほどの年齢にもなると誰とでも仲良くというわけにはいかなくなる。なんとなく嫌だなという直感に従っているから、割と人見知りである方だと思う。
 だから、本当ならば一切人と会わずに仕事ができたら良いなと思うのだが、幸か不幸か、人に会わずに生きることはできない。人と一緒に何か力を合わせなければ、成し遂げられないことの方が多い。まだ自分一人だけで一切を満足させるほどの力は私には無いが、いずれはサリンジャーのような生活。起きて半畳寝て一畳、天下とっても二合半。くらいの気持ちになりたいとは思うのだが、どうやらそんな雰囲気もない。むしろ、誰かパートナーを見つけたい気持ちもあるのだが、こればかりは自分ではどうしようもない気がして、時代に取り残されたのかもしれない。
 とはいえ、2025年はすでに新しく始まることがあるし、それまでに培ってきたものが幾つか実る予感もある。何とも節目のような一年になる気がするのは、2025という数字のせいだろうか。
 どう進むかは分からない。退化していようが、進化していようが、健康に気を付けながら挑み続ける。

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