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あゝ LAメタル!! その六

1984年頃の学生時代、私レンタルレコード店でバイトの店員をしていました。

今回の記事は一年前の「あゝLAメタル その二」のリメイク編です。私をLAメタルの世界に引き込んだ友人の話です。ジョン•サイクスの訃報に寄せて、その友人へ感謝の気持ちを込めて、書き直しています。

当時、レンタル店によく来る高校生バンドの4人組男子がいまして、店長や私とも仲良くしていました。彼らはその当時ブレイク中のモトリークルーやドッケンが好きでしたが、私は70’sロックが好きだったので、LAメタルはどこがイイのか分からなかったですし、ファッション的にもまったく受け入れられませんでした。

ある日、そのバンドのVo君に「何かオススメありますか?」と聞かれたのでRunDMCとの共演で復活していたエアロスミスの新譜「ダウン•ウイズ•ミラーズ」を聴かせると「なんか古い」と一蹴されました。笑

彼の名は悠太。イケメンでウィッシュのDAIGOに似ています。彼はまさにDAIGO(当時はまだTVに登場していないが)の印象で、クールだがどこか愛らしく、でもしっかりと自分らしさを持っていました。
バンドメンバー君達はそんな彼を「悠太は今は落ち着いてるけど、昔はヤンチャだったんすよ」と、店長先輩に笑顔で言います。

その店長先輩だって少し前はヤンチャで、以前に、ランディーローズ亡き後のオジーオズボーンの楽屋にアポ無しで突撃し「俺をリードギターにしろー」と乱入して、すぐにつまみ出されたという武勇伝を持っていました。
先輩曰く「オジーはつまみ出される俺を見ながら爆笑してたよ」と。その話に私も「それじゃー、ランニュー(乱入)ローズじゃないですか!」とか言って、爆笑していました。 

店長はビリースクワイアーやトミーヴォーリンが好きでしたが、元々は70sのホワイトスネイクが好きで、店内では70sの名盤「スライドイットイン」が頻繁に流れていました。悠太は黙ってそれを聴いていましたが、彼が本当に好きなのは、80s新生ホワイトスネイクのサーペンスアルバムの方だったとは、後になって分かったことです。

その後、そのレンタルレコード店はCDの普及により閉店し、私も店を辞めて就職活動をしていました。そして1年程が経ち、店は新たに、レンタルCD店として再オープンしていたのですが、悠太はその店のバイトの店員さんになっていたのです。

ある日、悠太が私のことを自宅に招いてくれました。悠太の実家の家に行き彼の部屋に入るとそこは、壁中にLAメタルのポスターが貼られ、ガンズンローゼス、デイヴリーロス、マイケルモンロー。そして一際大きなポスターはジョンサイクスの新生ホワイトスネイク。私は70sのホワイトスネイクが好きでしたが、悠太の部屋に居るとその事は許されず、80sのLAメタルの空気に満ちていました。

悠太が推す80s新生ホワイトスネイクの曲にはなかなか響かない私でしたが、悠太のお母様に呼ばれてリビングに移りコーヒーと洋菓子をいただいたのですが、そのお母様がすっごく美人でビックリしました。例えるならば、映画「泥の河」の船宿の中の加賀まりこ(古い)を見た時の衝撃と同じ感じなんです。優しかったし魅惑的なお母様の洋菓子を食べているうちに私は頭がおかしくなって、悠太の部屋に戻った時には新生ホワイトスネイクが好きになっていました笑。私はその日を境に悠太の影響でLAメタルの世界へと導かれていったのです。

当時MTVでも頻繁にホワイトスネイクの「Is this love」や「Here I go again」のMV動画が流れていて、デビットカヴァーデイルとイチャついてる悪女モデル妻は、ずっと身体をクネクネさせていて↓見てて不愉快でした笑。それを見ると「俺にとっての新生ホワイトスネイクはお前じゃない!そんな下品じゃない、悠太のお母様はもっと上品で綺麗だったぞ」と思い、私に魔法をかけた加賀まりこ似のお母様が勝手に「LAメタルの母」みたいになっていました。

その後、一度店に遊びに行ったのですが、悠太とは会えず、でも他のバイトさんが「悠太、家に来てくれたこと嬉しそうに話してましたよ、もらったカセットもすごくイイって」私はあの時、手土産に渋いシンガーソングライターのマイお好み編集カセットを彼に贈っていました。
その後、その店も閉店してしまい、悠太とは連絡が取れなくなりました。

時代はまさに80年代後半LAメタルの全盛期。私はその潮流に乗りすっかり好きになっていたLAメタルのバンドのコンサートへずいぶんと足を運んでいたのですが、いろんな会場で悠太みたいなLAメタル風男子を見かけると、悠太じゃないか?と彼を思い出すのです。

悠太、会いたいな 
話したいことが、いっぱいある。


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