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学生の活動は一過性で無駄なものか。

サークル活動、ボランティア活動、まちづくり活動、事業づくり、起業。学生が何かしらのアクションを起こす。学生個人個人の利己的、遊戯的な活動に範囲は狭まらず、社会や地域が「若者」や「学生」を求めるのと歩調を合わせて、学生たちも、社会に貢献できる活動をどんどん進めていく。

小さな活動から、政府と協力関係を築く活動まで、その大小はさまざまだ。

少し目立った活動になると、大人や地方紙などからの注目があったり、自治体の補助金や助成金をもらえたりすることもある(もちろん、補助金を使った継続性は否とするところもある)。

社会から活動が注目されるとき、よく言われる言葉がある。
「継続性はあるの?」「いつまで活動続けるの?」「あなたが卒業したら終わっちゃうの?」

多くの人間が死を怖がるように、終わるということはそこまで怖いものなのかと、問いたくなる。

社会人の真似事をして、企業、地域住民、民間団体と手を組んだのが運の尽きか。
数年で終わったら、周りをあなたたちが振り回しているだけと言われる。
死と活動の終焉の嫌忌を見出せない筆者が、なにこの他人から押し付けられた「無責任論」に淘汰されるのだともう1人の私が馬鹿にしたくなるが、胃の痛みという感情の痛覚には抗えない。

他人と共にいないと生きられないヒトという動物が本能的にもつ、他者承認欲求なのろう。


学生が学校の枠組みを超えて活動をするとき、そのとき、法律で定められた学びの権利が保障された遊技場を出ることになる。
ある意味では、パートナーとなる個人、組織の地帯を踏み荒らすことが始まる。
そういう理由から、”数年で活動をやめること”は無責任といわれるのだろう。

いやいや、そんな責任なんて求めていない。ただ、とても社会にとって良い活動だから、だからこそ、終わってほしくないんだ。そんなことを言う人だっている。

五月蝿い。ある時楽しいと思った遊びが、ずっと楽しいとは限らない。

お人形遊びのストーリーは、ブロック遊びのストーリーは毎回変わる。箱からおもちゃを出して、物語を想像して、親に「ごはんだから片付けなさい」と言われたら、物語は終わる。また箱からおもちゃを出す時、別の世界が広がっている。「あなたのそのストーリー、面白いから、ずっとそれを続けていて」なんて苦しい。

いまは違う願望がある。渇望する違うものがある。勝手にそちらへ行かせてくれ。
どうせ利己的なんだから。

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