ガラスの浮き球【レズパコ#05】
週末はたいてい海岸沿いの道の駅のカフェでのんと過ごす。海に面したガラス張りのカウンター席で、眺めているだけで涼しくなるライムソーダのグラスを二つ並べ、自由帳にペンを走らせながらとくと語らう。
「あら、宿題?」
「あっ、はい、お母様」
背後から覗き込む声に、私はとっさにノートを隠して振り返った。ベージュのチノパンに白いポロシャツ、デニムのエプロンをすらっと着こなすのんのママが、娘とそっくりな垂れ目を細める。
「ううん、ネタ作り」
のんが横から口を挟む。余計なことを。
のんママはこの道の駅の駅長だ。ジャージにTシャツというほぼ部屋着姿のだらしない娘と違って、いつも気品を漂わせている。
「今度のマルシェで出す新作の豆乳ジェラート、よかったら味見してみて」
「わあ、おいしそう」
胸の前で両手を合わせ、おしとやかに声をはずませる。そんな私を尻目にのんは、まるで自宅にいるようにふんぞり返ってジェラートの小皿を受け取り、しっしっと母親を追い払った。去り際に小さく手を振るのんママに、私は顔をほころばせて手を振り返した。
「ぶりっこキモ」
「うっさい。のんこそ態度あらためなよ。毎回ジュースまでごちそうになってるのに」
「だからって気ぃつかいすぎ。姑に媚び売る花嫁じゃないんだから」
豆乳ジェラートを一口味見して、うわっ、まずっ、と臆面もなく言い放つ。眉をひそめる私に、のんがもう一匙すくってこちらに向ける。せっかくスプーンも二つ用意してくれているのに、とためらいつつ、私は口を開いた。ひんやりと冷たいスプーンが舌に触れ、期待していた甘みではなく、大豆そのものの渋みが口いっぱいに広がる。
「ねっ、まずいでしょ」
私はうなずきもせず眉間のしわを深めながら、ライムソーダで後味を消した。
ガラス張りのカウンター席からは海が一望できる。道路と線路を挟んですぐ目と鼻の先、短い砂浜の岩礁に白波がさわさわときらめいている。踏切脇の岩戸と海に浮かぶ離れ小島が、共に立派な一本松を頭上に広げて、おーいおーいと呼び合っている。
思わず一句詠みたくなるような見晴らしを前に、スプーンを咥えながらノートに目を落としてのんがつぶやく。
「正常位、対面座位に、立ちバック」
なんて下品な五七五だ。書いたのは私だけども。
ビッグバンアタックの二番煎じが横行し、笑いの質がどんどん低下してゆく現状に危機感を覚えた私たちは、新たな一石を投じるために頭を悩ませていた。
「提案しておいてあれだけど、体位を変えればウケるってわけでもないと思う」
「だね」
「やっぱ流れが大事だよ」
流れ、とノートに大きく書きなぐりながら私は熱弁した。
トイレから戻ってのんの尻に腰をあてがったとき、教室中があっけにとられて静まり返った。あらかじめそうすることが決まっていたような自然な動作に、誰も口を挟むことができなかった。腰を振り始めてからようやく異変に気づいても、みんな困惑のあまり反応できずにいた。現に目の前にいたりちゃこですら、その時点ではただ口を丸くして唖然としていた。
そこに沈黙を破る棒読みの喘ぎ声。これは笑っていいやつだよ、という明確な合図に、笑いの第一波が巻き起こる。
腰を打ち付けるたびに、連続打ち上げ花火のように高まり波及してゆく笑いのボルテージ。そろそろおしまいかな、と思い始めたところに放たれる特大の一発。ビッグバァーンという意味不明な雄叫びが、クラスメイト全員の爆笑をかっさらう。
予想外かつスムーズな導入。必死さと塩対応の落差。笑いが落ち着いて弛緩しかけた隙を突いての大型爆弾。
「なるほど、緊張と緩和か」
のんが真面目な顔をして話をまとめる。いつも気だるげでどこか上の空なところはあるけど、笑いに対してはひたむきな友を心強く思う。
出会った頃はこうではなかった。のんは笑わないどころか、誰とも口を利こうとしなかった。私がいくらちょっかいかけても、目を開けたまま寝ているみたいに無反応だった。クラスからは完全に浮いていて、いまとなってはチャームポイントの垂れ目も、見下されてるみたいで気に食わないと周囲から反感を買っていた。
当時、私はのんの真後ろの席だったので、よく肩を叩いたり脇腹をつついたり背中をなぞったりしていた。だーれだ、と目隠しをしてもノーリアクションだったときは、こいつには神経がかよっていないのではないかと心配になった。いまでこそ挨拶がてら尻を叩くたびに新鮮な反応を見せてくれるようになったが、あの頃の彼女はきっと背後から胸を揉まれても動じなかっただろう。
橋本望海を笑わせるため、私はありとあらゆる手段を試した。いきなり机の下から飛び出して変顔したり、ドラえもんのモノマネをしながらポケットから飴を出したり、それこそ実際に胸を揉んでみたり、涙ぐましい努力を続けた。
ようやく打ち解けたきっかけは、なんてことない替え歌だった。笑わせるつもりもなく、そもそも彼女が近くにいることにも気付かないまま、無意識に口ずさんでいた。
「ぷりっ、ケツっ、ぷりっ、ケツっ」
それは初代プリキュアのオープニングテーマを元にした、あまりにも幼稚でくだらない替え歌だった。題して、ふたりはプリケツ。作ったのは小学生の頃だ。ケーブルテレビの再放送の録画を見ながら、私はいつもそのしょうもない歌詞を熱唱していた。
「ぷーりケーツぅ。ぷーりケーツぅ。ぷーりケーツぅ。ぷーりケーツぅ。ぷーりぷりでー、つーやつーやー、ふーたりーはー……」
放課後、ひと気の少ない帰りの駅のホームで、私はご機嫌に替え歌を口ずさんでいた。言うまでもないが、れっきとした高校一年生のころの話である。
「ぷりっ、ケツゥ~!」
いちばん盛り上がったところで、すぐ後ろに誰かいることに気づいた。黒髪ストレートの物静かな彼女はまるで他校の生徒のような佇まいだが、赤いタータンチェックのスカートは紛れもなく我が校の制服だった。
赤面して言葉に詰まる私に、橋本望海はふっと鼻で笑って訪ねてきた。
「それで、一難去ってまた一難、のところはどんな歌詞なの?」
「……紐パン履いて股食い込んで、ぶっちゃけハミ毛まん」
自信なくつぶやいた歌詞に、初めてのんが声を立てて笑った。
そこから仲良くなるまでさほど時間はかからなかった。相変わらず笑いには厳しかったが、以前と比べればとりとめもないことでよく笑顔を見せてくれるようになった。それどころかのんは、私のことをよく笑わせてくれた。ぽつりとつぶやくツッコミや小ボケが、いちいち私のツボに入る。
まずいと言いつつのんは豆乳ジェラートをほぼひとりで平らげた。これは大豆ジェラートって改名して、健康路線で売ったほうがウケるかもね。味に納得感も出るし。と冷静に分析しつつノートに大豆と書き込む。
最近ぎくしゃくしてると思っていたが、のんはどこも変わっていない。私がケツを叩けば文句を言いつつ笑ってくれるだろうし、ビッグバンアタックをすれば腰使いが甘いと駄目出ししてくれるだろう。
なのに私はこうして新ネタの打ち合わせをしつつも、それを実践している自分の姿がうまく想像できなかった。
正常位? 対面座位? 立ちバック?
自分で書いた単語をぐちゃぐちゃに塗りつぶしたくなってくる。どうシミュレートしても面白くならない。ここ最近、毎晩うなされている夢で実証済みだ。
カウンターの隅に置かれたガラスの浮き球を見るたび、のんのようだと私は思う。ロープでがんじがらめにされていても、透き通った水色のガラスは涼しげで、どんな荒波も意に介さず、のんびりぷかぷか漂っている、まるでのんの心そのものだ。
うーむとない知恵を絞りながら、のんがライムソーダのストローをくわえる。学校ではマスクをしているが、週末は素顔だ。つんと小さな唇もまた隠れたチャームポイントの一つ。りちゃこたちのように下品に大口を開けて笑ったりせず、うふふと母親ゆずりの慎ましさをほころばせる。
「なに?」
私の視線に気づいたのんが、カウンターの向こうを見やる。他にお客さんの姿はなく、窓辺のガラスの浮き球が青く揺らめく影をテーブルに落としている。
「あっ、いいこと思いついた。れおが亀甲縛りで登場して、私がムチで打つってのはどうかな?」
球を縛るロープを見て思いついたのだろう。のんと浮き球の共通点がもう一つあるとすれば、中身が空っぽなところだ。
「却下。もはやプレイじゃん。笑えない」
「ママはよくやってるんだけどなあ」
「えっ――」
「冗談。してても娘には見せないでしょ」
にひひと笑うのんを睨みつける。うっかり想像してしまったではないか。縛られるのんママと、女王様の出で立ちでムチを振るうのんママを。
「やめてよ、のんママは聖域なんだから」
「勝手に人の母親崇めないでくれる?」
「どうしてあのお母さんから、こんなアホな子が生まれるかね」
「アホはれおでしょ」
つんと脇腹をつつかれて、私はうっかり声を漏らした。あんっ、と自分の口から飛び出した女の子みたいな声を反芻して、まじかよキモっと内心セルフツッコミをいれる。
「感じちゃった?」
「は? んなわけないし。のんが急に触るからじゃん。バカじゃないの?」
そうじゃないでしょ。そこは笑いながら、あはん、もっとぉ~とせがむところだ。必死になって否定して、どうした私。
それでものんは珍しい私の反応を、あははと笑い飛ばしてくれた。
ライムソーダの氷が溶けて、からんと音を立てる。ジェラートの小皿に乗せたスプーンの背の、白い唾液がつやつや光る。カウンターテーブルを照らす陽射しが、のんの影を青く、私の影を赤く透かす。
いまここでビッグバンアタックをかましたらウケるだろうか。いや、のんは笑ってくれるだろうけど、のんママは引くだろうな。っていうか、私が引く。
レズパコ禁止の赤文字が脳裏をよぎって、いやいやいやとかぶりを振る。TPOの問題だ。レズパコだからとかじゃない。レズパコなんかであるわけがない。
レズパコや、ああレズパコや、レズパコや。
無駄に詠嘆しつつ私は水平線を眺めた。太陽でさえやがて沈んでしまうなら、いっそ中身空っぽになって、いつまでもぷかぷか浮かんでいたい。ガラスのように透き通っていたい。この胸に渦巻く情熱を、マグマを、海に流してしまいたい。
大豆の苦みがいまさら口によみがえってきて、私は残り少ないライムソーダをすすった。グラスの底に沈んでいた緑色の三日月が、苦い果汁をストローに運んだ。
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