ただのしかばねのようだ【レズパコ#10】
胸ぐらにつかみかかった手を、りちゃこが忌々しげに振り払う。やめなよ二人とも、とのんがうろたえながら制止する。騒ぎに気づいたクラスメイトたちが、なんだなんだとこちらを振り向く。昼休み、窓ガラスはスコールに揺れ、遠くで雷鳴が轟いている。
りちゃこに肩を突き飛ばされ、私は掃除用具入れに背中を打ち付けた。スチール製の扉がベコンと大きな音を立てる。世間話に夢中になっていた子たちも、驚いて振り返った。私は苦痛に顔をしかめながら、りちゃこの肩を押し返した。
「いいかげんにしてよ!」
「そっちこそいいかげんにして!」
ただならぬ空気を察したクラスメイトたちが、ざわざわと顔を見合わせる。
りちゃこが鼻の穴をふくらませる。ぷくっ、ぷくぷくぷくっと小刻みに。私は奥歯を噛み締めて睨みつけた。りちゃこは上唇をひん剥いて、リスのように前歯を見せつけて威嚇している。教室に背を向けた彼女のすさまじい表情は、私にしか見えていない。
「ちょ、りちゃこ、まずいって」
のんがガチトーンで口を挟む。ライト部分が取り外されて金具がむき出しになった黒い懐中電灯が、りちゃこの手に握られている。
「やば、スタンガンじゃん」
よく通るタカナシのアニメ声に、まじかよとクラス中が騒然となった。
りちゃこがニヤリと笑う。私は唇を噛んで眉間にしわを寄せた。のんが腕をつかんでりちゃこを食い止める。
「やめなよ、シャレになんないって」
「離して!」
「あっ――」
のんを振り払った勢いで、懐中電灯の先端が私の脇腹に突き刺さった。バチバチバチッと大げさな効果音が鳴り響く。きゃああっとあちこちで悲鳴が上がる。のけぞってはじき飛ばされた私は、ロッカー伝いにずるずると座り込み、ぱたりと横向きに倒れた。
「れお!」
のんがすかさず私に駆け寄る。
「わ、わ、私のせいじゃない。れ、れ、れおが突っかかってくるから。ど、ど、どどど、どうしよう」
「いいから! りちゃこは先生呼んできて! あと救急車! 早く!」
「う、うん、わかった」
りちゃこが駆け出す足音が、床に反響して遠ざかってゆく。目を閉じて横になった私の身体を、のんが少し引きずってロッカーから離し、仰向けに寝かせる。
こういうときは患者を動かさないのが鉄則だが、位置を整えるなら混乱に乗じた今しかない。のんの手際のよさのおかげか、誰も口出しせず成り行きを見守っている。みんながどんな表情をしているのか見られないのが残念だ。私は気絶しているのだから。
それにしてもりちゃこのやつ、シリアスなシーンなのにふざけやがって。みんなに背を向けているのをいいことに、顔芸で笑わそうとするなんて。おかげで用意していたセリフの半分も言えなかった。リス顔で鼻をぷくぷくさせてきたときは、こっちがスタンガンを食らわせてやろうかと思ったほどだ。
もちろんライトを外しただけの懐中電灯で人が気絶することはない。タカナシのアシストがなければ、誰もそれがスタンガンだなんて思わなかっただろう。こんなときのためにも、貸しは作っておいて損はない。
スタンガンの音はのんがスマホで鳴らした。実際あんな爆音の、給水塔に穴が空くほどの電撃を腹に流されたら、私は一瞬で黒こげになっていただろう。
自然な導入、意外な展開、そして緊張と緩和。いまのところは順調な滑り出しだ。大根足の大根役者の大根芝居も、のんの迫真の演技がうまいこと味付けしてくれた。
「冗談やめてよ、起きてよ、れお」
心もとない半笑いにも似た震え声で、のんがそっと私の肩を揺らす。
「ねえ、ねえってば」
本当に泣いてるんじゃないかと疑いたくなるほどの名演だが、目を開けて確認するわけにもいかない。私は時が来るまで気を失っていなければならない。
教室の床は湿気のためかひんやりしている。みんなの足音や話し声、窓に打ち付ける雨の音が、後頭部に伝わってくる。ふと、のんの指先が唇に触れた。打ち合わせ通りの動作だが、私はぎくりと身をこわばらせた。
「息してない」
教室のざわめきが大きくなる。私はのんの指が離れるまで、実際に息を止めていた。べつにそこは普通に呼吸をしていても差し支えないのだが、どうせ演じるならリアリティーを追求したい。べつにのんの指に息をかけることに抵抗があるわけではない。
のんが私の胸にぴたりと耳を当てる。甘い髪の香りがふわっと漂ってきて、私はふたたび息を止めた。ついでに鼓動も止めてしまいたかったが、心臓はいつも以上に激しく脈打っている。演技の緊張のためだ。
「心臓止まってる」
嘘つけと思わず笑ってしまいたくなるようなセリフに、しかし教室は静まり返った。
ここで協力者のタカナシがふたたび助け舟を出す手筈になっている。ひらめいた、といった感じにさりげなく心臓マッサージを提案するのだ。のんが私に馬乗りになればスタンバイオーケー。あとは適当なタイミングで目を覚まし、下から騎乗位のビッグバンアタックをぶちかますだけ。ドッキリ大成功と書かれた紙を勝訴のように掲げて、りちゃこが突入してくる。あの日以上の爆笑がクラス中に巻き起こる。そのはずだった。
「のんちゃん、人工呼吸っ!」
鼻にかかった舌っ足らずな声が沈黙を破る。予定外の単語に思わず飛び起きそうになったが、のんは構わず私の身体を跨いで腰を下ろした。のんの冷たい尻たぶが、太ももにぴたりと吸い付く。全身が心臓になったみたいに、ドクンドクンと床に振動が伝わる。
おのれタカナシめ。突然のアドリブにのんも困惑しているのか、私の胸に当てられるはずの両手が一向に降りてこない。
いっそのこと、このタイミングでぶちかましてやろうか。心臓マッサージでも目覚めない、という前フリがなくても、ここまでお膳立てすれば充分だろう。
なにか動きがあったのか、おおっ、とか、きゃあ、とか周囲がざわついた。思わず確認のため薄目を開けると、のんがマスクを顎までずらしているところだった。
「ストップ! 生きてる、生きてるから!」
私は目を見開いて訴えた。仰向けになったまま、ばたばたと足を踏み鳴らす。
私を見下ろしていた周囲の目に、ほっと安堵と落胆が浮かぶ。なんだ人騒がせな、とがっかりしたような失笑が漏れる。
「ドッキリ大成功~」
陽気に教室に飛び込んできたりちゃこも、冷ややかに迎えられた。ドッキリ大成功と書かれた紙を、丸めて背中に隠す。
マスクをずらしたのんが、むすっと唇を突き出して眉間にしわを寄せている。跨がられたまま身動きできない私は、教室の窓に目をそらした。ガラスが雨で滝になっている。どこからか救急車のサイレンが聞こえてきたが、もちろん私を迎えに来たわけではない。
のんが床に両手をついて身を乗り出す。蛍光灯の逆光が、垂れ下がった髪を透かす。顔がこっちに近づいてくる。まさか、本当にキス、じゃなくて人工呼吸する気じゃ――
「あとで反省会ね」
スタンガン用に仕込んだ効果音のように、タイミングよく雷鳴が轟く。耳打ちされた低い囁きに私は身震いし、生唾を飲み込んだ。容赦なく打ち付ける雨の向こう、サイレンはしだいに遠ざかっていった。
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