このケダモノが【レズパコ#15】
終業式でコスプレさせられることもなく、ズル休み中のりちゃこと遭遇することもなく、のんとあれ以上の進展もなく、なにも整理がつかないまま明日から夏休みが始まる。散らかした部屋を見限り、父に借りたスーツケースも床に置きっぱなしで、荷物をリュックひとつにまとめた。
駅には旅館の送迎バスが迎えにきてくれた。運転手はのんのおじいちゃん、社長だ。ほかにも一般客が乗り合わせていたからあまり話せなかったけど、バスを降りるときに温泉の銘入りのモナカをくれた。
門の裏に隠れていたのんが、ばあっと飛び出してくる。バスの中からすでに彼女の姿を発見していた私は、まるで驚く素振りも見せず、おっすと片手をあげた。
「ずいぶん身軽だね」
「まあね」
リュックの中には一泊分の着替えと洗面用具くらいしか入っていない。修学旅行のときの荷物より少ない。
「足りないものがあったら、べつにいつでも取りに行けるし」
それにいつでも帰れる。のんとの同棲生活に、私はいまだに揺らいでいた。いざとなったら自宅から仕事に通えばいいしと、往生際悪く抗っていた。
寮は海岸通りを挟んですぐのところにあった。バスや社用車の並ぶ従業員駐車場を抜け、雑草の生い茂る中庭の先に、さびれたアパートが佇んでいた。赤茶けた鉄階段の下をくぐり、粗大ごみのような室外機や自転車や洗濯機を横目に角の部屋へ向かう。
105号室のドアには「ここをキャンプ地とする」と書いたステッカーが貼られていた。ずいぶんと色褪せてるから、のんの仕業ではなく以前の住人によるものだろう。
「おつかれさまでございます。こちらがお部屋の鍵でございます。オートロックではございませんので、お出かけの際は施錠をお願いいたします。どうぞごゆっくりおくつろぎくださいませ」
うやうやしく差し出された鍵を受け取り、ノブに挿し込む。しかし固くて回せない。
「あ、ごめん。ちょっと建てつけ悪いんだよね。よいしょっと」
横からのんが肩でドアを押し込むと、ようやく鍵が回った。しかし今度は抜けない。
「コツがいるんだよ」
のんが私の手を取って角度を微調整する。さりげないボディタッチに、ぐっと身をこわばらせる。
もしも会って早々セクハラをしてきたら、すぐに帰るつもりでいた。ただの身体目当てで私を飼い殺しにする気なら、のんとの友情もここまでだ。これくらいならまだ許容範囲だが、まずはイエローカード一枚。
ドアを開けると、中は想像していたよりは広かった。ワンルームではあるけれど、キッチンもある。エアコンも効いてて涼しい。冷蔵庫の上には、電子レンジ、ポット、炊飯器が積み重ねられ、一つのコンセントから電気を奪い合っている。
あとから入ってきたのんが、後ろ手に鍵を閉める。くるぞ、と私は身構えた。抱きしめられるか、胸を揉まれるか、尻を撫でられるか、唇を奪われるか、押し倒されるか、はたまたその全部か。
「どうぞおかけくださいませ」
なおもおもてなしのノリのまま、のんが座椅子にうながしてきた。床にはグレーとホワイトのパネルマットが敷かれ、テーブルには菓子盆が置かれている。座椅子は背もたれが湾曲した薄い木製で、そのまま旅館の客室で使われていそうな代物だった。
冷蔵庫から二リットルの三ツ矢サイダーを取り出し、二つのマグカップにとくとく注ぎ入れる。私がごくりとつばを飲んだのはしかし、のどが渇いているせいではなかった。
のんの大きめのTシャツの首元から、汗ばんだ肌が覗く。慌ててそらした視線の先には、枕の二つ並んだシングルベッド。まだお菓子に手を付けてもいないのに、血糖値が急激に上昇したみたいにくらくらする。
「明日は道の駅のほうに九時ね。制服は向こうに用意してあるから、って言ってもユニクロのチノパンとポロシャツだけど。髪色は自由、でも香水とネイルはNG」
カントリーマアムの封を破りながら、のんが事務的に告げる。私はうなずきつつ、菓子盆の上に手をさまよわせた。いまはなにを選んでも喉を通らないだろう。
「へぇー、ちゃんと爪切ってきてるじゃん、えらいえらい」
とっさにつかんだのは、よりにもよってさっき社長にもらったのと同じモナカだった。素早く手を引っ込めて、ポケットに突っ込む。
「なぜ盗んだし」
のんが笑ってツッコむ。
「べつに――」
爪くらい、と言い訳しかけて、会話が噛み合っていないことに気づく。考えてみればレジ接客だ。ネイルバチバチでは務まらない。だけど道の駅の仕事のために爪を切ってくる、なんて発想はまったくなかった。なのにどうしてこんなに深爪にしてきたのか。追求されてもいない問いに、勝手に動転してしまった。
ポケットからモナカを二つとも取り出して、万引きを咎められた子供のようにそっとテーブルに置く。
「えっ、手品? すご!」
「さっきのんのおじいちゃんにもらった」
「なんだ。モナカを増やす力に目覚めたのかと思った。モナモナの実の能力者」
「なにそれ弱そう」
「そういうのが意外と強いんだよ。ビスケット増やすやつも強かったし」
「いたっけそんなの」
普段の会話となにも変わらない。二人暮らしというからこっちは相応の覚悟をしてきたのに、教室や互いの部屋にいるときと同じだ。あの雨の日のことも、りちゃこに唇を奪われたことも、まるで何事もなかったみたいに平然と振る舞っている。
簡単な仕事の流れ、寮生活のルール、大まかな人間関係、なんかはそこそこに、お菓子をつまみながら他愛のない話が続く。だけど警戒は緩めなかった。油断したところを襲う算段かもしれない。
「けどさ、ちゃんときてくれてよかった。なんとなくこないような気がしてたから」
ふいにのんがつぶやいた。
「ありがとう。れおがいてくれて嬉しいよ」
「そんなに人手足りなかった?」
「ううん。たしかに慢性的に人手不足ではあるけど、私のわがままで通してもらった話だから。そうじゃなくて、夏休み中もずっと一緒にいられるのが嬉しいってこと」
言葉に詰まる。そんなふうに面と向かって言われるのには慣れていない。慣れていないということはつまり、のんの態度が異常ということだから、ほだされてはいけない。
「好きだよ、れお」
「なに、急に」
「たまには素直に気持ち伝えておこうと思ってさ。れお、大好き。愛してる」
さらりと涼しい顔で言ってのけるのんを直視できない。そうやって強引に甘い雰囲気に持っていこうとしていることは見え見えなのに、思惑通りたじろいでしまう。
そっちがその気なら、私だって言ってやる。好き好き大好きアイラブユーと、節をつけて口ずさんで笑わせてやる。この弛緩したような張り詰めたような、わけわかんない空気を台なしにしてやる。
ぱっと開いた口から、どうしたことか言葉が出てこない。モナカの皮がびっしり内側に貼り付いてるみたいに喉が締め付けられている。たった二文字、冗談めかして言い返せばいいだけなのに、崖から飛び降りるみたいに足がすくむ。
そんなに軽々しく口にできないほど、私の気持ちは重く大きいというのか。だとすると、あっさり言ってのけてしまえるのんの好きなどその程度ということであって、やはりそんなやつに心も身体も許してはいけないのではないか。っていうか私は、のんのことをちゃんと好きなのか。私のほうこそ身体目当てのケダモノではないのか。
「れお」
「はい」
「友達じゃなくて、恋人になりたい。私と付き合ってほしい」
嬉しい、なんて感情は一ミリも湧き上がってこなかった。むしろはっきりと嫌だと感じてしまって、私はショックを受けた。
「返事はいますぐじゃなくていいよ。夏休みが終わってから、また聞くから」
すくっと立ち上がり、のんがキッチンへ向かう。と言ってもワンルームだからほとんど距離は変わらない。逃げ場がない。
「紅茶、砂糖いる?」
いらない、という言葉すら発せなくて、あいまいに首を横に振る。のんがポットに水を注ぎ、スイッチを入れる。電気ポットだから見張っている必要なんてないのに、マグカップにティーバックを入れたあとも席に戻らず冷蔵庫の前に立ち尽くしている。
おちゃらけて好きだなんて言わなくてよかった。それこそ取り返しがつかない。のんはふざけてなんかいない。真剣に告白していたのだ。なのに私は彼女の好意を疑い、あまつさえ拒絶しようとしている。いや、きっぱり断れるならまだ誠意がある。私はなにも言えず、この場から立ち去ることもできず、ただ答えをはぐらかしているのだ。
中身がスカスカの、壁にもたれて潰れたリュックを見やる。なんの準備もせずここに来てしまったことを、私はいまさらになって激しく後悔していた。爪を切って、VIOのムダ毛を剃って、いちばんかわいい下着を選んで、そんな準備だけしてきた自分を呪った。
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