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ボンレスハム太郎【レズパコ#06】

【前回のお話】
#05 ガラスの浮き球

 四限目に体育がある水曜日がいちばんアガる。授業から昼休みまでシームレスに体育館を独占して遊び倒せるからだ。

 しかし今日の私は絶不調だった。三日前から続く便秘で視界が霞んでいる。今朝もトイレで頑張ったが、なんの成果も得られなかった。菓子パンをレタスサンドイッチに切り替え、フルグラを牛乳ひたひたで食べまくっても、私の腸は教科書に押しつぶされたバッグの底のイヤホンコードのように固く複雑に絡まっている。創作ダンスで体を動かしまくっても、冷や汗ばかり吹き出してくる。

 昼休みに入ると同時に一応トイレに向かったものの、やはり奇跡は起こらなかった。体操着の上からお腹をさすりつつ、体育館に引き返す。元気に走り回るクラスメイトたちを眺めて、若いっていいなとしみじみ思う。私にもあんな時代があったのに。

 のんの姿を探したが見当たらない。りちゃこもいないし、教室に帰ってしまったのだろうか。難産に苦しむ私を残して、薄情な奴らだ。どうせあいつらはなんの悩みもなく、健康な青春を謳歌しているのだろう。

 ぶひゃひゃひゃひゃ、と下品な笑い声が聞こえてきて、私は再度周囲を見渡した。のんはともかく、りちゃこは近くにいるらしい。たとえ爆音のゲームセンターではぐれても、りちゃこの笑い声だけは聴き分ける自信がある。バスケットシューズの摩擦音も、ボールのドリブル音も、屁でもなく突き破ってくる。デカいのは尻と乳だけにしてほしいものだ。

 声は用具室の方から聞こえてきた。マットや跳び箱に座って、みんなで昼食でもとっているのだろう。私は持参していたバナナを体育館の隅からピックアップし、皮を剥きつつ彼女らのもとへ向かった。

「ウホウホ~」

 おまたせ~のイントネーションで言いながら用具室のドアを開け放って、私は凍りついた。バナナが手から滑り落ちる。

「ウホッ……」

 うそっ、のトーンでつぶやき、目を見開く。床に落ちたバナナが、くたりと折れる。

 ゲラゲラ笑うギャラリーの足の隙間から、上下に激しく揺れるデカケツが見える。仰向けで組み敷かれている相手の顔は横乳が邪魔して見えなかったが、マットに放射状に広がる黒髪は見間違えようがなかった。

「ああー、もうイきそう。出る出る。中に出すよ。いいよね? いいよね?」

「やめて、中はダメ! お願い!」

 広げた両足をりちゃこに押さえつけられたのんが、必死に抵抗する。容赦なく打ち付けられるハーフパンツのデカケツが、のんの股の上でバウンドしている。

 助けなきゃ、と思ったが、あまりにもショッキングな光景に体が動かなかった。周りで見ているクラスメイトたちは腹を抱えて笑っている。いったいなにがおかしいというのか。私の親友がピンチだというのに。

「あっ、出るっ。どぴゅっ。びゅるる。びゅるるるる。どくどくどく」

 手遅れだった。りちゃこはのんにぐったりと覆いかぶさって果てた。

「ひどい。中はダメだって言ったのに。しくしく。しくしく」

 のんが泣いている。いや、笑っている。口ではしくしくと言いながら、りちゃこの肩越しにようやく見えたその顔は笑っていた。マスクをしていても、恍惚にとろけた垂れ目が、いやらしい笑みを浮かべている。

「なにしてんのっ!」

 みんなが一斉にこちらを振り返った。用具室の入口で立ち尽くし、私は拳を握りしめて震えていた。便秘で霞んでいた視界が、こみ上げてくる熱い涙で滲む。

「おかえり、れお。うんこ出た?」

 平然と話しかけてくるりちゃこを、私は殺意を込めて睨んだ。うんこはお前だ。

 やっと金縛りが解けて、私はマットに横たわる二人に歩み寄った。そしてりちゃこの目障りなケツめがけて思い切り蹴りを入れた。

「痛っ!」

 どすん、と重たい砂袋を蹴ったような感触だった。りちゃこが飛び起き、私の肩を張り手で小突く。

「いきなりなに?」

「うるさいデブ」

 負けじとグーパンで肩を殴る。りちゃこも当然やり返してくる。

 遅れて起き上がったのんが、仲裁のため間に入った。私ではなく、りちゃこをかばうようにこちらを向いて。私はますます頭に血が上って、のんを押しのけ、りちゃこをマットに突き飛ばした。

「れお、どうしたの?」

 困惑するのんの制止を振り切り、りちゃこに馬乗りになって胸ぐらをつかむ。

「なにこの手? 離してよ。便秘でイライラしてるのはわかるけどさ」

 怒りで震える声をおさえつつ、りちゃこが薄ら笑いを浮かべて茶化してくる。しんとした気まずい空気は私も察していたが、もはや振り上げた拳を下ろすことはできなかった。

「まさか私がのんに中出ししたから怒ってるの? 大丈夫だよ、今日は安全日だから。溜まってるなられおも一発やっとく?」

 ははっ、と探り合うような周囲の笑い声が背中に落ちる。それらは一瞬で蒸発しかき消された。熱く燃えたぎる心臓が、怒りを全身にドロドロと循環させる。

 冗談は通じないと悟ったりちゃこが、きっと睨みあげて言い放った。

「ふざけてただけじゃん。意味わかんない。それともあれ? れおってのんのこと好きなの? 個人的な恋愛感情を持ち込むのは禁止って、自分で言ってたくせに」

「笑えないんだよ!」

「どっちが! このガチレズ!」

「だまれ! ボンレスハム太郎!」

 りちゃこの顔からさっと血の気が引き、時が止まった。のしかかった股の下で、こわばっていた肉体が弛緩する。しまった、それだけは禁句だった。と気づいたときには遅かった。目頭の小さな穴から、ぷくっと涙が膨らんで溜まってゆく。

 それはりちゃこが小学生の時、好きな男子につけられた不名誉なあだ名だった。号泣するりちゃこを慰めたのは私だった。その男子に報復したのも私だった。みんなの前でズボンを引っぱり下ろして、チンチンかぶるくんというあだ名を付けてやった。

 しかしりちゃこも大人になった。あのころのように泣きわめきはせず、涙をためたまま静かに言い返してきた。

「変だよ、れお。頭おかしいんじゃないの。母親の葬儀でふざけて踊ってたときから思ってたけど」

 言われた瞬間、眼の前が真っ白になった。キーンと耳鳴りがして、髪が逆立つ。

 のんが止めてくれなければ、なにをしていたかわからない。後ろからそっと抱きしめられて、私は不覚にも涙をこぼした。母の棺の前で熱唱し踊り狂った幼い少女の祈りを、友の優しい腕が包みこんだ。ひんやりと冷たくなった心に、ぽっとささやかな火が灯った。

「ふぐっ――」

 嗚咽しかけた私の背後で、のんがカクカクと腰を振り始めた。

 は?

 と驚く私とりちゃこをサンドイッチにして、のんがパコパコとまぬけな音を響かせる。

「ファイナルフラーッシュ!」

 聞いたこともない裏声でのんが叫ぶ。これ以上静まり返ることはないだろうと思われた用具室に、さらに深い沈黙が訪れる。体操着の生地が打ち合わさる乾いた音だけが虚しく響く。それでものんは腰を振るのをやめない。

 涙目のりちゃこと目を見合わせて、ふっとそらす。まるで敗色濃厚なにらめっこのさなかみたいに、こらえきれない笑いがこみ上げてくる。私の下でりちゃこのやらわかな身体が小刻みに震え始める。

 腰に回していた両手で、のんが私の脇腹をくすぐってきた。そんな実力行使に出なくても、まもなくダムは決壊していただろう。

「あははははは!」

 笑いすぎて涙が出てくる、みたいな格好で目尻を拭う。りちゃこも笑いながら腕で顔を隠す。周りのみんなも遠慮がちに笑う。のんだけが一途に腰を振り続けている。

「もうやめて、わかったから」

 私はのんの腕を振りほどき、幼き日の自分を諭すように言い聞かせた。

「ちょっと顔洗ってくるわ」

 去り際、用具室の入口にバナナが落ちているのを見つけた。気付かず踏みつけてすっ転ぶべきそれを、私は拾い上げた。ぬめりつく感触と、バカげた甘ったるい匂いが、まるで妖精が地上に生み落としたうんこみたいだ。なんて、思ってみたけど笑えなかった。

【次回のお話】
#07 私だ


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