
私に愛の話をさせてください
(⚠︎本記事では個人の性的嗜好、ジェンダー、性愛の
分化、恋愛観、人生観など、人によって感じ方が大いに変わるテーマがわんさか出てきます。
タグの時点で察している方は早めに離れてくださいね。
あと自分語りが多めです。アホ。)
・1.永遠の課題
I LOVE YOU.
世界で1番使われていたら私がなんとなく嬉しい
この言葉ですが、日本語訳の「愛してる」より、
はるかに広義の意味を持つんじゃないかと。
一単語で完結しているからその分…というのもあるとは
思うのですが、「LOVE」という字を見ただけで
なんとなく心が動くのは、言語と教育の賜物です。
「好き」を認識し始める段階は動物としての本能的な物であって、ホルモンやらで全部調節されてるんだよ、
と言われてしまえばそれだけの話になるのですが、
今回は物質的な愛の話ではなく、もっと抽象的な愛の形についてぼんやり散文を述べようという趣旨の記事です。
まず、「愛って何?」なんてテーマはあまりにも
ありきたりでしょう。
隔てを超えた真実の愛、であったり、無償の愛、男女の友愛、親愛、禁断やら何やら言われてたり、歪んでたり、もはや飽和し切っています。
自分の感情に名前を付ける事すら出来ずに一生を終えた人がこの星に何億人いるでしょうか?
愛という概念、言葉が発明される前から皆何かを、
誰かを愛して生きてきました。
私も愛している人がいます。ずっと。
・2.私の経験 私じゃない誰かの経験
まず、私は恐らくバイセクシュアル(両性愛者)です。
自分のアイデンティティを定義付けてしまうのは危険な
事であるとも感じていますし、正直まだ曖昧なので
なんとも言えないところではありますが、
漠然と何かを愛しています。
幼少の頃はいわゆる恋に恋するお年頃で、その辺りの
異性に対してやたらよくある勘違いをしたりして
今になって「あれは身勝手な感情だったな…」とよく
勘違いをしたりなんだったりするのですが、思春期の
頃にはピタリと止まりました。
よくある勘違いなんでしょうかね。
あれにこそ名前が欲しいものです。若気の至り?
後は対物性愛、無機物、植物に対する関心もあります。
(人間としての人格を持つ、と仮定してのみ)
(植物は無生物ではありませんが、独特な生物観が
身に付きました。性癖プロフェッショナル……)
小学校高学年の頃には一通りの性知識を身に付けた
マセガキだったのですが、よく行っていた公園の木に
性的関心を抱き、謎の恋愛ごっこをした事があります。
理由としては、その木の節の一部が女性器のように見え、(季節だったのかどうかは分かりませんが)
そこから樹液が溢れていたのが性的に映ったからです。
……節操が無いのか??????????????
秋頃からその木の元に足繁く通い、何やら甘い言葉を
囁きながら節の一部の樹液で濡れそぼった部分を弄って束の間の逢瀬に浸る二人(?????)を演じて悦に
浸っていました。大丈夫か???
アニミズム的な、ある種感受性の機敏さから来た思春期
特有のよく分からないアレ…だと思い返してみてはいるのですが、女性器に見えた事もあり、明確にその木は
女性としての人格を有しているものとして接していました。
女性=性的で魅力的な物 という刷り込みもあるのでしょうか…。少なくとも、枝分かれする節々が女性の
なだらかな曲線美を描いているようにも映ったり、諸々
要因はあったとは思います。
でもあれは単なる性愛、一人遊びの範疇を出ないもの
でしかありませんでした。
愛ってそうじゃないでしょうよと。
時は流れて中高。人間関係でてんやわんやしていたのもあり恋愛どころじゃありませんでした。
漠然と人を好きになる過程の途中とも言うべきでしょうか、その結果私の愛とやらは博愛主義と呼ぶには
あまりに歪に育ちました。
漠然と誰かを好きでいたい。
好きでいなければ生きていけませんでしたからね。
世界への怯えを無くすには誰かを、何かを愛するしかない。
愛する事で自分の理解できる、納得出来る物へと納めるわけです。
みんな好きで、なんとなく嫌い。
自分を好きな人が好きだけど、嫌いになったら
もう一生許さない。許せるようには出来ていない。
それも何か違うよなあといまいち釈然としないまま
大学生になってしまいました。
大学では環境の変化も大きく、人間に対する視野が
広がり、人生の平均値…のような位置にようやっと
立てたのかな?とぼんやり感じています。
不幸という訳ではなく、今がそうならいいや…
くらいのあっさりした幸せへの認識です。
おべんちゃらを立てるのは上手くなりました。
みんな良い人達だという気持ちも本当で、漠然と誰かが好きだなあ。それでいいじゃないか!
しかし、感情の発露は本来己の自我、エゴ無しでは
起こり得ない事です。
インターネットを始めて、良い人達と知り合って、
それなりに交友を広げていく仲で、かなり深い仲になった同性の方(歳下)がいました。
その方は同性との交際経験がある方で、はえ〜そうなんかくらいしか考えていなかったのですが、
(覚えている範囲です)
「あなたに対する感情が 好き なのか依存 なのか
分からない。しばらく考えて、私の中であなたが
「恋人」として好き、という結論になった。
自分本位の感情なので、どうとでもしてもらっていい。ごめんなさい。」
とまあ、初プロポーズがインターネットで、相手は同性でかなりの歳の差とかいうとんでもねえ状況は当然
それまでの私の人生攻略大全にはありませんでした。
私も、その人の事が好きでした。
単に話が合うよね、というのももちろんありますが、
人間として信頼出来る、信頼したいと感じていました。
………

至言どころじゃない。
はい。気が付きました。
気が付いてしまいました。
そもそも人生で「恋愛」の概念が曖昧なまま過ごして
しまったので、
「私の事が好きなんですか!!!????
は??。?!!?!???!!???!????!
いやもうちょっと考え直してみても私そんな良い人じゃ
ありがとう私も好きです!!!!!!!!!!!!」
と、ある意味他者依存の感情での意志決定が確立して
しまいました。
もちろん、思いっきり初対面の赤の他人に同じ事を
言われたら「怖…」となるのがまたポイントです。
ある程度の信頼関係があって、心を許したいと思える
人だったから「いいよ!」と言えてしまう。言いたい。
類似したセクシュアリティをデミロマンティックというそうですが、私の場合は一目惚れが多かったのであまり当てはまらない…
(まあ、一時の感情で自分のパーソナリティを決めて しまうのは相当危険なのでやめておきます…)
ですが何より、その人が、自分より年上の大人を、
インターネット越しの大人の言葉を、心から信頼して、
素直に自分の気持ちを伝えて下さったのが、
その時ばかりは本当に嬉しかったんです。
信頼してもらう事の難しさは身に沁みていますからね。
インターネットリテラシーの問題ではなく、一人の人間としてそこまで信頼してもらっているなら、私もその
気持ちに最大限報いたい。
愛に応えなきゃ生きる意味が無い。
その後は知り合い、友人、恋人、を足して3で割った
くらいの関係性でしたが、毎日動物の動画を送り合ったり、嫌な事があったら慰め合ったり、会う約束をしたり、ふと名前を読んで「好きだよ」なんて言って笑ってみたり。
間違いなく幸せでした。
親愛と友愛が混ぜこぜになって、歳下の方に対する
庇護欲を足したような胸の暖かさ。
あれは愛だったんでしょうか。
今はそれを肯定していたいです。
でも、私が人間関係で問題を起こしてしまった時に、
その身内間の流れでその方とのご縁は途切れてしまいました。
自分の罪は消えないのに、一丁前に引きずっている。
好きだったんだな…
好きだよ…… あの人の事がさ……
大人びて明るいあの声を 自分で捨ててしまった……。
屑のまんまで終わっちゃうのか……
…そんなこんなで、インターネットでの恋愛に対して
かなりの苦手意識が出たのですが、傷を治すには
元の元を探る必要があります。
根本療法ってやつですね。少々荒療治ですが…。
まず、私はあの人が好きです。
なんなら今でも好きです。みみっちく引きずっています。よく夢に見ます。
それは間違いない。
では、それは本当に愛として正しいものだったのか、
と問われると、私はあの時の場合は正しかったと、
結果論的ですが今でも思いたいんです。
縁はどうあっても切れるし、人間は自分の感情でしか
動けないから勝手に憧れて勝手に裏切られたと思う事も山ほどある。(自分)
それでまた全部怖くなる。それは嫌だ。
愛の、エゴの正しいぶつけ方を模索したい。
・3.それなりに潰れないで愛をやる
自分も他人も潰す事の無い愛とは相当難しい物です。
感情の出力が違っていたり、認識、生き方の前提から
して価値基準が根本的にズレていたり、とことん自分を
すり潰して誰かを愛する意味が分からなくなったり。
私は八方美人なので、それなりの時にそれなりの人しか
愛せません。愛したいとすら思いません。
しかも変な同情だったりエゴだったりが根底だったりする。エゴでもいいじゃないか!と開き直るのは相手に
とっては暴力にしかならない。
範囲を絞る事も大切なんでしょうね。
愛せる範囲に限界値があるのならば、身の丈に合った
コミュニティを探してゆらゆら暮らせば傷付く事は無い。フィルターバブルは懸念する必要がありますが…。
愛を信じる事が怖い、自分にその価値があるのかどうか分からない、という場合も、意外と近い所にヒントが
あります。自分を見つめていても暗い事しか出ない時は、「昔に受けた愛と自分」とを思い返すのも手です。
その愛がトラウマと直接紐付いている場合はもちろん
推奨出来ませんが、あの時ゲーム一緒にやった人
優しかったな、元気にしてたらいいな、また話したいな
と思えたらもう100億点です。
人の愛を愛せる人は愛されるべきですし、自分の知らない愛を知ろうと生きる人も当然愛されるべきです。
人の幸せなんて願えるほど自分は出来た人間じゃない、
という場合も同様です。
それがあるなら大丈夫。無くても正直全然大丈夫。
生きているだけで偉い、とまでは言えませんが、
少なくとも私は誰かがここにいてくれているという
事実を愛したい。
私に言われても説得力は無いですが、身近な人も同じ
なんじゃないでしょうか。
誰でもない人に祈る為に私がいます。
大した真似は出来ませんが、「世界中幸せになりますように」とか、適当でもいいので祈っておけば、少しは良い事したかな、アホくさ、みたいになれます。
自分の感情を満たしてあげられるのは他人しかいないし、他人にも自分しかいないんだ!!くらいの、
ある意味では究極の他人軸的思考かもですがね…。
・結局、愛って何?
長々と語ってきましたが、親愛、性愛、友愛、慈愛、
その他人間の数だけある愛を覗き見るには、他者の人生に介入する術を得る必要があります。
SNSはそれにはうってつけですが、他人の心の領域に
介入しすぎて自分がやられるパターンもあるのでおすすめは出来ません…。
他者の人生を通して自分の愛の在り方を知る事が
アイデンティティの確立でもあり、新しい愛の芽生え
でもあるのかもしれない。
最後の最後でぼかして終わったなあ……。
難しいから、やっぱりみんなで考えたいですね。
その状況が多分一番愛の姿に近い。
人間には愛される権利があります。
生きる権利があります。死ぬ権利もあります。
法律である程度は保証されているのがありがたい限りです。
私は誰かをまともに愛せているかどうかは他者にしか
分からないものですが、少しはマシな形になったら良いなと願います。それも愛。
人間としてあなたの幸せを祈ります。
祈る余裕が無くても愛で満たされていられます。
…なんだかキリスト教みたいになってきましたね…。
誰でもない誰かを愛して、自分は最強だから愛されて
然るべきなんだ!!くらいの根性で歩いて行きたいですね。
自分を愛さなきゃ誰も愛せない。誰も愛せないなら
愛を愛していたいですね。
下手にロマンチストなので、どんな形の愛でも
つまらないものだと諦めてしまいたくないんです。
ごめんなさい…。
愛で埋められる隙間が広ければ広いほどに、見える世界も広がります。私はそんな人を愛しています。
♡I LOVE YOU.♡