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それは不思議にありふれて 〜第一章 【騒霊】 その⑤
社務所の入口にはめられた戸板は、文字通りはめ込まれているだけだった。宝先生が持ち上げると容易に外れた。それを入口脇に立てかけると、アルミサッシの引き戸が現れた。宝先生が取り出した鍵束から選んだ鍵を鍵穴に差し込み、グルグル回すとカチリと音がした。どうやら解錠出来たらしい。
普段馴染みのない玄関建具に、千比呂は興味津々だったが、里緒はその奥から滲み出ているただならぬ雰囲気に生唾を飲み込んだ。
「さっき渡したライト使えよ。ここには電気が来てないから、中は真っ暗だぞ」なんの躊躇も無く引き戸を開き、横にした戸板を室内に押し込みながら宝先生が言った。ふたりは慌ててポケットからLEDライトを取り出し、その頭をひねった。陽光の下でも存外眩しく強い光が放たれた。
「うわっ、眩しいねこれ」思わず千比呂が声をあげる。
「百均レベルじゃなくない?」里緒が続く。
「めっちゃイイ奴じゃん」
「侮ってたね。ゴメンチャイ」
「ゴメンチャイ」
ふたりは頭を下げてLEDライトに謝ると顔を見合わせてエヘヘと笑った。
「足下に気をつけろ、段差があるからな。」ふたりの会話を背中に聞きながら、宝先生はマグライトを照らし中へ入って行った。
ふたりも恐る恐る足を進める。ライトで照らされた社務所の床は土がむき出しになっていた。古民家の土間のイメージそのまんまだった。
里緒が感じ取っていた不思議な雰囲気は、玄関をくぐるとそれほど嫌な感じではなくなった。ただし、建物内部全体にその感覚は漂っている。暗がりの中、テレビで深海の映像を観ているような印象に近い感覚だった。
土間に立ち止まったふたりは、手許のライトで辺りをぐるりと観察し始めた。
土間の奥に明り取りの窓が角の二面に取り付けられていたが、これも戸板で塞がれている。その下にはL字型にキッチンというよりも台所といった風情の下台が並びシンクには蛇口が設けられている。水は来ているらしい。ガス台のようなものもあるが、その上にはカセットコンロが置いてある。作業台には簡単な食器棚も置いてあった。
反対側に光を動かすと土間から一段上がった所に六畳の畳が敷いてあり、その奥は十二畳くらいの広さの板の間になっていた。
宝先生が、板の間の天井付近に手を伸ばして何かゴソゴソやっていると、パッと暖色の灯りが灯った。天井から吊り下げられたキャンプ用の電池式のカンテラのスイッチを入れたようだ。
灯りに照らされた板の間の奥には木箱が積み上げられ、その前に長い提灯がとぐろを巻いたような物も置いてあった。
「先生、あれは何ですか?」千比呂が好奇心を炸裂させると、宝先生は、「あれは、祭りの時などで神楽を舞う際に使う小道具みたいなものだな。あの丸まってる提灯のお化けみたいなのはヤマタノオロチだ」
「神楽なんかやるんですか?」千比呂の質問を、こんな所でって意味にとられるぞ〜と、里緒は横で呆れている。しかし、こういう生徒の扱いには、先生も慣れているようで、気にした様子も無かった。
「神楽は、それ専門の人を他の神社から呼んで舞ってもらってる。斎事係に舞えとは言わないから安心しなさい」
「は〜い」舞えと言われても断固断るつもりの里緒は軽く返事をした。
続けて先生は、掃除道具の位置と使い方や、巫女服の入った桐のタンスに板の間の先のトイレの位置、縁側に沿った雨戸の開け方など細々と説明していった。説明されながら、これでわたしらがやらないと言ったらどうなるのだろうと千比呂は少し考えたりもしたが、里緒は、というと、板の間の壁の真ん中に祀られた神棚ばかりを気にしていた。
何だろな?あそこに神様みたいなのは居そうに無いけど、社務所の中の変な感じはあそこから出てるんだよな......そればかりが気になって、宝先生の説明も話し半分になっていた。
「......と、あらかた社務所は、こんな感じだが、ここまでで質問はあるかな?」
授業かよと、ツッコミたい気持ちを抑えて、「ありませ〜ん」と千比呂は答えたが、「先生、質問!あれは何ですか?」と、里緒が手を挙げた。
「いや、授業かよっ!」千比呂は思わず脊髄反射でツッコんでしまった。
「あれって?」ツッコミは無視して宝先生が聞き返す。
「あの神棚です」里緒が指を指す。
「神棚がどうかしたかな?」問い返す宝先生の目が厳しくなった。ヤバい。なんか変に思われたかな?里緒は不安を覚えて言葉を濁した。
「いや、なんというか気になりまして......」
眼鏡の位置を中指で直すと宝先生は無表情で説明を始めた。
「あの神棚は、神様を祀っているものじゃなくてね、真ん中に御札が2枚見えるだろ?あれを祀っているんだ。星型が描かれたものと、格子柄が描かれたもの。星型の方は、この境内全体に結界を張っている。まがりなりにも竜涎香という高価な物が御神体となっているからね。邪な目的を持った者は、鳥居の内側に入れないようになっている。」よく千比呂が通れたなと、里緒は思ったけど口にはしない。
「入ろうとしたらどうなるんですか?」千比呂は好奇心が強い。
「回れ右して、侵入した場所から出ていく事になるね」
「それは、魔法みたいなのですか?」
「魔法というのがどういうものか見たこと無いからわからないが、これは符術と呼ばれるもので、神の御力をお借りするって言ったらわかりやすいかな」
「ふ、じゅつ......?」千比呂はポカンとしているが、里緒にはなんとなく感覚的に理解は出来た。
「魔法陣みたいな?」そういえば先週ハリポタ観たって千比呂が言っていたのを、里緒は思い出した。
「描いた形と神様の御名によってその効果が変わるという意味では、近いかもしれない。手順を踏んだ儀式で力を授かるというのもそうかな?」
千比呂は口を開いてホエ〜って言ってる。瞳は猫の眼だ。
「先生がその符術で御札を作ったんですか?」里緒は少し気になる部分が出てきた。
「そうだよ。代々符術の使い方は神主に伝承されるからね。私も子供の頃から親に仕込まれたもんだ」なんとなく目を細めているようにも見える。
「まあ、使えるようになるには練習が必要だけどね、符術というのは約束事をいかに守るかが重要でね。それさえ出来れば誰にでも扱えるさ」
ここでまた千比呂が猫の眼になって尋ねた。
「じゃあ、じゃあ!わたしにも使えますか?」
「ああ、多分使えるさ。でもね、符術は宝家の秘伝だから他所の家の者には教えられないな」宝先生はニヒルにフッと微笑んだ。
「え〜、じゃあ宝先生と結婚したら教えてもらえます?」千比呂の大胆な発言に里緒はすっ転びそうになった。バカなのか!いや、千比呂らしいのか......
「それは構わないが、私にだって選ぶ権利があるからね」動ずることなく大人の対応で受け流す宝先生。見た目は良いからなぁ、きっと生徒からの告白とかたくさんされてるんだろうなぁ。里緒はぼんやり考えた。
下唇を突き出し不満気に唸る千比呂を他所に、宝先生は、説明を続けた。
「そして、こっちの格子柄の御札は社務所の泥棒避けになっている。効果はどちらも似たようなものだが、星型が陽ならこちらは陰だ。それぞれ書かれた神様の御名で性質を変えてある。陰陽並べる事によって、防犯効果も高められるんだ」
不思議な気配の正体は、どうやらこの格子柄の御札らしい。あれは二重の結界の重圧だったのかと考えれば納得もいった。でも、なぜ、高価な御神体のある社殿より、この社務所の方に結界を強めてあるのだろう? 神楽の小道具は、確かに高そうだけれど、竜涎香程ではなさそうだ。竜涎香であの大きさなら多分一千万円はくだらないだろうと、里緒は先日見たオカルト番組からの知識を総動員して考えた。
導かれる答えはひとつだった。
「この社務所に、御神体より貴重なものがあるんですか?」
つい口をついて出た里緒の言葉を聞いて、宝先生は今日1番の笑顔を浮かべた。
「木下は、なかなか頭が回るな。将来は、警察官とか向いてるかもしれないな」
あれ?ごまかされたかなとも思ったが、そうではなく、本気で感心したらしい。
「これから見せるものが最後になるんだがね。その前に君たちに斎事係をやる気があるのか聞いておきたいな」
千比呂と里緒は顔を見合わせて頷いた。
「お願いしたいと思うのですが、出来ればわたし達ふたりでやりたいんです」
適度に緩く、適度に仕事もあり、なんとなく刺激的な予感もする好物件だ。千比呂は里緒と一緒にこの役目に就きたかった。それは、里緒も同じである。無茶な願いでも出来ることなら、ふたりでやりたかった。
「ふたりとも同じ意見かい?」宝先生の問いかけに黙って真剣に頷く千比呂と里緒。なんならその熱い視線には念が込められているようだった。
「了解。じゃあ、今年度のものいみごと係は、ふたりでお願いするとしよう」
「へぇっ? 良いんですか〜??」
あまりにあっさりした返答に、少し拍子抜けをして変な声をだしてしまったふたりだった。
「いいよ、別に。こちらは、2人でも3人でも。私は1人なんて注文つけた覚えもないからね」
歓声を上げ、無邪気に跳ね回りながら喜ぶふたりだったが、千比呂と里緒の頭には、ふと、こんなに大喜びするほどのことだったけ? と、疑問がよぎったがすぐに消えた。
「わかった! わかったから落ち着いて。では、最後の場所に案内するよ。階段が汚れているから、靴を持って来なさい」
そうなだめて指示をしながら、宝先生は、板の間の奥の神楽の小道具を移動し始めた。土間に脱いであった靴を指先にぶら下げながらそこへ戻ると、板の間の一部が跳ね上げられ、地下へ続く階段が口を開き、潮の匂いの混ざった肌寒い空気を静かに吐き出していた。
宝先生は、小道具置き場の棚からデッキシューズを持ってきて地下の入口に腰を掛け履いた。マグライトの灯りを点けると奥へ続く階段が見えた。一段ごとの踏みしろは広く段差もそれほど急では無さそうだ。最初だけ床の高さ分の深さは、手で支えながら足を降ろさなければならなかった。
「ここは何ですか?」急に現れた怪しさ満載のRPG風ダンジョンに思考が追いつかなくなった千比呂がたまらず尋ねた。
宝先生が、穴からひょこっと顔を出した。里緒は、ピコピコハンマーがあったら反射的に叩いてるなと、ちょっと胸がざわついた。
「ここから先が、当神社の本宮になるんだ。裏社殿とも呼ばれたりもしていたみたいだけどね。この先にもう一柱の御神体が祀ってある。月一で祝詞を捧げる事になってるから、その準備もしてほしいんだ。説明がてら案内するから、靴を履いてついてきなさい」
マグライトの光を頼りに宝先生が壁に一定の間隔を置いて、交互に立てられた燭台にターボライターで火を灯しながら進んで行く。
足下がなんとか見えるくらいに明るくなった洞窟階段が見える。穴の上でそれを眺めていた千比呂と里緒は、互いに目を合わせること無く、本日4度目のノールックジャンケンを敢行した。
結果は、千比呂の勝ちだった。本日初勝利である。
里緒は、床穴の縁に腰を掛け、靴を履くとトウッ!という掛け声と共に、里緒が岩で出来た床下へ飛び降りた。実に楽しそうである。
千比呂も追いかける形で飛んだ。自慢の超速21cmがキュッと鳴った。
若干湿っているが、滑るほどではない。前方から宝先生が、気をつけろよと、気を使う。両脇の壁には手すりになるようにだろうか溝が掘られている。手を触れてみるとヒンヤリと冷たい。手入れが行き届いているのか、手が汚れることもなかった。
階段を下るにつれ、湿度と潮の匂いが増していくように感じられた。一定の間を置いて風がそよぐのを感じる。10メートル程、真直ぐに下った先で空間が開けたように思えた。
「ちょっとここで待っていてくれ」宝先生はひとり暗闇に消えたかと思うと、少し遠くに明かりが灯った。間を開けてまたひとつ。宝先生が燭台に火を灯して回っているらしい。チャプチャプと蓄えられた水が揺れる音が聞こえる。
「まって、ちょい、やばくない?」千比呂が里緒に話しかけると里緒の表情は凍りついていた。
自分に見えているものが、他人には見えていないらしいと気がついてどれほど経つだろう。今まで様々なものを見てきたと思う。でも、誰かに伝えると気味悪がられて離れて行く。だから、誰にも言わない。話さない。努めて明るく振る舞った。そうしてきた。里緒はそうして生きてきた。だけど......
「ちひろ......」いつになく真剣な声で里緒が話しかけてくる。
「何?」千比呂も身体を硬くする。
「いつでも逃げられる準備しとこ」
広場の真ん中辺りに目を据えながら里緒が千比呂の左手を握った。千比呂も力を込めて握り返す。
燭台の明かりが灯るにつれ、広場の様子が少しづつ見えてきた。ゴツゴツとした黒光りする岩肌に囲まれた20メートル余りの空間が広がっている。高さは宝先生ならば、手を伸ばせば天井に届きそうな程で、その半分から先は波立つ黒い水で占められていた。どうやら海水が貯まった物のようで、潮の匂いはここから来ているようだった。
水場の奥には50センチ程の高さの暗闇があり、更に奥に続いているようにも見えた。実際、風はそこから仄かに漂って来るようで、時折絞り出すようなか細い風音が何かしらの獣の唸りのようにも聞こえた。
広場の丁度真ん中には人間の大人程の大きさ円筒形の岩塊があり、その胸の辺りの高さの部分は大きな球状に抉られていた。その両脇に立てられた燭台に宝先生が火を灯すと、影になっていた部分に巨大な二枚貝がその殻を開いた形で収まっていた。
その中心で何かが動いている。極めて微妙な動き蠕動と呼ぶが相応しいような、何か呼吸でもしているような......
慄えるような収縮を繰り返すそれは、くすんだ山吹色をした動物の脂肪の塊のようでもあった。
「おーい、こっちへ来ても良いぞ」その場の雰囲気に似つかわしくない抑揚で宝先生が手招きをしている。しかし、千比呂も里緒もその場を動く気にはなれなかった。
特に里緒は、その塊の放つ気配に恐れを感じていた。たまに心霊スポットと呼ばれる場所や、何かが命を絶ってさほど時間の経っていない場所で感じる気配。剥き出しになった生命のうねりとでも言おうか、その何百倍の濃度のものがそこに感じられた。本能的に何かを感じ取ったのか、千比呂も動けずにいるようだった。
「それは、いったい何ですか?!」やっとのことで絞り出した千比呂の問いかけになんでもないように宝先生は応えた。
「大丈夫、見た目は少しあれだがね、何もしないよ。これが本社殿の御神体様だ。怖くないからこっちへ来なさい。話し辛い」
お互いの掌をしっかり握りしめながら、意識せずともすり足でそろりと近づく。熱くも寒くもないただ重苦しい湿度に呼吸が詰まるような気がした。総身に鳥肌が浮かび、冷や汗が背筋を伝う。里緒は、千比呂に少し遅れ始めたが、握る手に更に力を込めて千比呂が里緒を引っ張った。繋がりから感じる温もりに誘われ、里緒も何とか前に進む。
やっとの思いで宝先生のいる場所まで辿り着いた時には、ふたりとも汗だくだった。里緒などは、肩で息をしている。
「はい、先生が言ってからここに来るまで2分かかりました」ティーチャーズジョークなのだろうか、左腕のスマートウォッチを見ながら宝先生が言った。実際そんなもんなんだろうが、ふたりには小一時間経っているような感覚だった。
「先生、冗談言うんだ」千比呂が変な所で負けん気を発揮する。
「冗談くらい言うさ」場の雰囲気を紛らわせようとしてるのかもしれない。案外優しいのかなと里緒は思って、憎まれ口でも叩いてやろうと考えたが、御神体から放たれる気配に押されてそれどころでは無かった。どうかすれば吐き気すら感じている。
「初めて見ると不気味だとは思うが、何もしやしないから安心してよく見なさい。でも触っては、いけないよ。一応祟り神になるらしいからね。これは」宝先生は、御神体へ誘うように身体を開いてふたりを片手で促した。
「祟り神って怖いやつじゃないですか!」泣きそうな顔で里緒が抗議する。
「分類的にそうだというだけさ。これは、土地の邪気に対して祟る神様だから、仇なす訳ではない者に害はないよ」なんでもないといった口調で応じる。
「そうなんですかぁ?」音が単純な体育会系女子の千比呂が意を決して覗き込もうとする。
凄いなコイツと、里緒が感心していると不意に背中に腕を回され、千比呂に身体を引き寄せられた。「ちょ、ちょっとぉ」半泣きしそうな声をあげながら抵抗を試みるも脱出は叶わない。
「死ぬ時は一緒だよ」親指を立てながら、潤んだ瞳で精一杯の作り笑いを頬に擦り寄せて来る千比呂に、里緒は嘆息ひとつと引き換えに諦めを手に入れた。
覚悟を決めて、蠢く肉塊に視線を移し観察を始めた。やや濡らしたような、黄味がかった表面に静脈のように薄く青筋が全体に走っている。大きさは生まれたばかりの嬰児程だろうか、ややくびれた部分が首のようにも見え、頭に見立てられる部分には小豆粒大の丸く赤黒い物が2つあり、丁度目の様に見える。それ以外は何もなくツルリとしていた。
「プラナリアのでっかいやつみたいだね」千比呂が急に博学を披露する。
「何?プラナリアって」
「切っても再生して増えてく軟体生物。前にナショジオで見たんよ」ちょっと得意げな千比呂。
「テレビばっか見てんな」里緒が軽く千比呂の脇腹を肘で小突いてもダメージは無いようだった。
暫く観察していたが、動き出す気配は全く無かった。
「先生、この子には名前があるんですか?」曲がりなりにも祟り神と呼ばれている御神体を思わずこの子と呼んでしまった自分に里緒は内心驚いていた。あまりにも自然に口を突いた。誰かに言わされたかのように。
宝先生は、中指で位置を直した眼鏡を光らせながら言った。
「蛭児様。この神様の名前は、ヒルコ様だ」
とりわけ強い潮の香を乗せた風が、目を見張るふたりの頬を撫でていった。
【騒霊】その⑥へ続く