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それは不思議にありふれて 〜第二章 【影踏】 その⑤

静かにエレベーターが連絡通路に到着すると千比呂は扉が開くと同時に飛び出し、相模線のホームに続く階段を5段飛ばしで駆け下りた。
ホームに出ると、先ずは上り側の端を目指す。
当人にしてみると軽く流している程度なのだが、なかなかのスピードのように東海道線ホームから眺めている大人達からは見えた。

「まだまだ、現役でもいけそうじゃないですか。彼女。もったいないなぁ」
大多駅長が、腕組みしながらしきりに千比呂の走りに感心していた。

蝶ヶ崎海岸の名所であるギボシ岩のモニュメントを横目に、相模線のホームを駆け回り、あれよという間に上りホームの端と真ん中に御札を貼り終えた千比呂は、連絡階段脇の扉をくぐって従業員以外立入禁止の作業区域に入り、その先の下り側のホームの先端を目指した。

結構な距離を走っていたが、まだ息切れひとつしていない。東海道線ホームから大多駅長の声援を受け、愛想笑いで手を振る余裕もあった。

千比呂が二枚のお札を貼り終えた頃、やっと一枚目の御札を里緒が貼り終えた所だった。
踵を返し東海道線ホームの上り側へ移動を始めると、臨時ホームを挟んだ先にある相模線ホームをこちらに向かって走ってくる目の醒めるような青い作業着にヘルメット姿の千比呂が見えた。

蝶ヶ崎駅には、3つのホーム面がある。主に使用されているのは、1番線2番線ホームのある相模線ホームと、5番線6番線ホームのある東海道線ホームだったが、その間に3番線4番線ホームの設定された臨時ホームがあった。

この臨時ホームは、朝夕の特急列車が停まる以外は、あまり使われる事はない。これはこのホームが東海道貨物の線路上にあるため、一般の車両が使用する事はラッシュ時の通勤特別列車の逃げ道としての利用以外は、ほぼ無かったからだった。

「おーい!!」と、大きな声で千比呂に手を振ると千比呂も両手を振り応えてくれた。

里緒はその時初めて気がついた。
臨時ホームに薄く漂う黒い煙に。
臭いは無いので、火事というわけでもなさそうだ。

いつもの心霊的なやつかなとも思ったが、よく見る光のようなものではない。なんとなく直感的に良くないもののように思えて、ホーム中央で待ち構えている宝先生の許まで戻ると、その事を報告した。

「やっぱり、何かいるのか。私もさっきから奇妙な唸り声のような耳鳴りが聞こえていたんだ。少し、祓いを急いだほうが良いかもな。ここは、私がやっておくから木下は、上り側の方を済ませてしまってくれ」
少し考えながら、予備で持っていた接着剤と御札のカードを取り出して、臨時ホームに目を向けた。

「わかりました」
神妙な顔で頷くと里緒は、ホーム中央の御札を宝先生に任せて、ホーム上り側端を目指して走り出した。

相模線側の御札貼りを終わらせた千比呂が東海道ホームの連絡階段を降りていた時、走り去るとは形容しがたい里緒の背中が見えたので、足を早めて追いかけた。

「こっち終わったよ〜」
里緒の横に並んでドヤ顔をしてやった。
眉間にシワを寄せながら真剣な顔で走る里緒の表情が意外で、少し嫌な予感を覚えた。

「なんかあった?」
「臨時。ホームで。黒い煙…… みたいなの。見えた……いそが。ないと。危ないかも……」
並走しながら様子を伺うと、里緒が息切れしながら答えてくれた。

「黒い煙ってどんなの? さっき見たってやつみたいなの?」
千比呂の矢継ぎ早の質問に、喘ぎながらも里緒はなんとか答えてくれる。
「感覚は。だいぶ近いの…… 早く御札。貼っちゃわないと……」

「そういうことなら、御札貸して。わたしが言って来るから、りおは戻って見張ってて」
千比呂の申し出に御札を渡して足を止めた里緒は、遠のく親友の背中に手を合わせたが、呼吸が乱れて感謝の言葉は形にならなかった。

汗だくで駅員詰め所に里緒が向かっていると、宝先生が6番線ホームの端にしゃがみ込んで御札を貼り付けているのが見えた。

近くに行くと、先生は立ち上がり、里緒の姿を見て不思議そうな顔をした。
「あれ? 早かったね。もう貼り終えたのかい?」

「いえ、千比呂が変わってくれました。あたし合図があるまで、臨時ホームを見張っています」
未だ息は荒かったが、なんとかつっかえずに伝えられた。

「そうか、では戻って祈祷の準備をしよう」
先生は、そう言うと右手を里緒の背中にまわして、前に押してくれた。少し歩む速度が上がった。

東海道線ホーム中央位置に貼られた御札を背中に、蝶ヶ崎駅の敷地の中心部分に向かって、大幣を片手にお神酒の入った素焼きの徳利を構えて、宝先生はスッと目を閉じ気持ちを集中させた。

途端に凛と張り詰めた気配が周囲の空間を支配したように霊感とは全く無縁の大多駅長と田仲さんにも感じられた。
霊を視認出来る里緒は、背中越しの気配の変化を感じながら駅全体を注意深く観察する。依然として、中央の臨時ホームには、黒い煙のように、霞のように漂う何かが漂っていた。

それは、蠢くように流動しながら、こちらの様子を伺っているようだった。
見張りながら見張られている。不気味な緊張感が漂っていた。

不意に単調な電子音が流れた。宝先生のスマホに着信があったようだ。
それは、千比呂からの作業完了を告げる簡単なNodeのメッセージ。

「始めるぞ」
低く良く通る宝先生の声に視線を送ることもなく、里緒は片手を挙げて応えた。
今、視線を外すとなんかヤバい。直感的というより本能的な部分でそう感じていた。

ホーム上にお神酒が撒かれ芳醇な日本酒の香りが辺りに拡がる。大幣を大きく振る音が二度三度奏でられると、声の届く範囲のものが僅かに振動するほどの低音で、宝先生が祝詞を唱え始めた。

作業を終えて皆の所に千比呂が戻っていると、急に辺りが震えるような感覚に包まれた。なんだろうと歩を進めると視線の先に、大幣を正面に構え祝詞を唱える宝先生と、そこから数歩下がってうつむき手を合わせる大多駅長と田仲さんの姿が見えた。

「ありゃ、もう始まってんだ」呑気に独り言をこぼしながら少し足を早めた。
しかし、余程ご祈祷料が良かったのか、さっき遭遇しちゃったみたいなのがめちゃヤバかったのか、宝先生の気合の入りかたが違うね。こんな声出せたんだね。ひ弱そうなのにねと、また少し千比呂の中で宝先生の評価を高めてあげた。

駅中に響き渡る祝詞は10分過ぎてもまだ終わる気配はなかった。
音が反響しすぎて、里緒には何と言っているのか上手く聞き取ることは出来なかったが、構内の空気の色まで変わって来た気がする。

地デジから4K放送にチャンネルを変えた時程の違いのように視界がクリアになってきている。霊視の能力にも作用しているのかも知れない。

「なんかすっげぇし」
ボソッと漏らしながら、臨時ホームの黒煙に改めて目を凝らしてみる。相変わらずドロドロと蠢くそれは、祝詞の振動に合わせて震え、まるで蒸発するかの如く範囲を狭めていっている風に感じられたが、同時に色濃く濃度を増しているようにも思えた。

気のせいかとも思い、よくよく見てみると全体が人の形を成しているようにも見える。気の持ちようだろうか?ロールシャッハテストの絵柄を見た時と同様の心理的な反射なのだろうか?
里緒は、確信の持てないままに暫く観察を続けることにした。

千比呂は、宝先生達の許まで戻ると、田仲さん達の横に並び、同様に手を合わせて頭を垂れた。少し離れたホームの縁で里緒が臨時ホームを見張っている。
立ち尽くしている里緒の背中を見て、なんとなく良くない雰囲気を感じて、いやだなぁと、思った。

祝詞は実に30分程詠じられていた。声の張りが徐々に強くなっていく。切り裂くような気合の声と共に大幣を振り回すように払うと、黙して一礼の後、「終わりました」と、溜息のように呟くと額の汗を拭った。

清々とした空気が駅の構内を包み、清涼な感覚に包まれている。まるで酸素の密度が上がったかのようだった。
明らかにさっき迄とは雰囲気が違っている。

「どうだ?」
駅長達と二言三言会話を交わすと、里緒の横に並んで宝先生が尋ねた。

「どんどん小さくなって行ってますね。でもどんどん色が濃くなってもいます」
この状態が良いのか悪いのか判断がつかない里緒は、すがるような目で宝先生を見た

その一瞬だった。里緒が今や漆黒の塊まで縮んだ黒煙から目を離した一瞬。硝子を引っ掻くような叫声が宝の耳を襲った。
同時に黒い塊は人の姿に変わった。左腕の無い学生服の少年の姿に。
それは、暗い情念のような黒いうねりを身にまとい、切り刻まれたかのような生々しい傷跡だらけの顔に怒りの表情を顕にしていた。

「気づいてます? あれ、さっきのアイツですよね? やばくないですか?」
里緒が青ざめた顔で宝先生に矢継ぎ早に質問を投げかける。
「ちょっとヤバいな。大伴っ! ちょっとこっちに来てくれるか」
宝先生にも予想外だったに違いない。珍しく冷や汗を浮かべながら千比呂を呼んだ。

「なんですかぁ?」
すっかり終わったつもりで気を緩めて大多駅長達にチヤホヤされていた千比呂は、気の抜けた返事をしながらやってきた。

「少し予定外の事態になった。申し訳ないがもうひと仕事頼めるか?」
宝先生のただ事ではない様子に千比呂はイヤな予感って当たるよなぁと、ため息混じりになんですか? と、もう一度繰り返した。

「たちの悪そうなのが、一体残ってしまったようだ。暫くはそれも動けないはずだから、今、御札を描くからそれを持ってその柱の前あたりでかざしてくれないか?」
平静を保とうと努めながら先生はそう言うと、千比呂の同意も確認しないまま、大多駅長にメモ紙を一枚とボールペンを借り受け、何かを書き出した。

里緒を見るとすっかり怯えてしまっている様子だったが、もう目を離す訳にはいかないと、大きな目をさらに開いて臨時ホームの上を睨みつけている。

千比呂は里緒の手をそっと取ると優しく抱きしめた。
「ありがと……」
か細くつぶやきながらも臨時ホームの学生服から視線を外さないよう、里緒も右手はしっかり繋いだまま、千比呂の背中に回した左腕にしっかりと力を込めた。

先生は、メモ紙に御札を描きながら現在の状況を大多駅長達に説明している。
少し困惑したような顔をした大多駅長は、田仲さんと顔を見合わせると大きく頷き合う。少なからず、ただならぬ気配は感じていたようだ。
「おまかせします。但し決して誰も怪我などされぬよう、よろしくお願いします」
それだけ言うと、力強く敬礼をした。

「これ、なんて読むんですか?」
手渡されたメモ紙の御札に書かれた神様の名前には、素戔嗚尊と書かれ、その下には一筆書きで書かれたような、ボカして見ると剣という漢字にも見えなくもないような絵が書いてあった。

「スサノオノミコトだ。ヤマタノオロチをやっつけた神様だ。強そうだろ? これは破邪の御札だ。払うわけじゃなく霊自体を消してしまうものだからね。後の儀式が大変だから本来は使いたく無いのだけど、今回のようなのに対しては致し方ない。その札に霊が触れたら消えてしまうから、あいつの所に行って思いっきり振り回してやってくれ」
眼鏡を光らせながら得意気な宝先生に発破を掛けられる。

「先生が行ってくればいいじゃん」
里緒が横から援護射撃をしてくれた。
「この格好じゃまともに動けないんだ。すまないが頼んだよ」
神主装束の両手を広げて動きにくそうアピールをしてる。
「陰陽師って映画じゃ、みんなそんな格好で飛び跳ねまくってましたけど」
千比呂は、頬を膨らませて抗議する。
「あれは映画だ。現実と混同してはイケないよ」
不敵に眼鏡を輝かせる宝先生にまたやり込められた千比呂は、この怒りは、その霊とやらにブツけてやろうと渋々腹を決めた。

そんなやり取りを眺めながら、大多駅長の鼻息が少し荒くなっているのを田仲さんは見逃さなかった。
駅長…… 混ざりたいんですね。
口には出さず、そっと胸の内にしまう。

「じゃあ、行ってくるからね。りお。ちゃんとオバケの居る場所お教えてね!」
里緒は臨時ホームの学生服から目を離すこと無く、千比呂の言葉に背を向けたまま応えた。
「わかった任せといて!気をつけてね、怪我しちゃやだよ」

「うん」
力強く自分の胸を叩くと踵を返し、今度はエレベーターを使わずに階段を連絡通路に向かって駆け上がった。

連絡通路に出ると、臨時ホームの入口を曲がり下り階段を駆け下りる。踊り場までたどり着くと横壁が切れたところから東海道線ホームを覗き込んで指示を待った。

身振り手振りで里緒が学生服の居る場所を指し示してくれている。
確認するように、千比呂も階段下の柱前の開けた箇所を指さし、口だけを動かし、ここ? と確認すると、里緒が大きく頷いた。

目標とする場所を目視で確認する。特に変わったものは見えない。
暫くジッと眺めてみる。
だが、やはり変化はない。
変化はないが……

意を決すると千比呂は短く力強く息を吐き、階段上からホーム面の目標位置に向かって飛び蹴りのような形で、いっそこれでいなくなってくれればと半ばヤケクソの期待を込めて飛び込んだ。
蹴り足にした左足の脛が何か掴まれるような冷たい感触があった。
「何? これ……」

東海道線ホームから見ていた人々は、一様に言葉を失った。
臨時ホーム連絡階段の半ばからホーム面の広場めがけて蹴り込んだ千比呂の身体が左足を伸ばした姿勢のまま空中に浮かんでいた。
霊感に無縁な駅職員のふたりには全くの超常現象でなければ、イリュージョンでも見させられているのだろうかという気にさせた。

宝先生には、甲高く声変わりが始まったばかりの少年のような掠れきったハスキーな延々と続く嬌声が耳に障った。

里緒だけには見えていた。左腕のない学生服の亡霊が、その残された右腕で千比呂の蹴り足を掴み持ち上げている。
傷だらけの亡霊の顔はその傷のあまりの多さと生々しさで、隣のホームからは、血塗られたように見えた。

真っ赤な血まみれの顔の中、狂おしいばかりの歓喜に見開かれた白濁した眼と、耳許まで切り裂かれた頬の傷が更に拡がる事を厭う事無く顎のちぎれ落ちるまで開かれた口が、残酷な微笑みを形造っていた。

千比呂は体幹に力を込めてホームに頭から落ちないように必死に耐えていた。自分の身体を空中に浮かべているのは、左足の脛にかかった力一点のみが支点になっているのはわかっていた。

わかってはいるが、どうすればいい? 腹筋と背筋が悲鳴をあげ始めている。気を抜けば、ホーム面に後頭部から落下しそうだと考えると、恐怖がザワリと背筋を撫でた。

「ちひろ、眼の前にいるよっ!!」
東海道線ホームから見ていた里緒が叫び声で亡霊の位置を示した。

里緒の声に反応するように、力任せに右足を蹴り上げると、つま先に確かな感触があった。
的確に亡霊のだらしなく垂れた顎を千比呂の右足が蹴り上げ、その勢いで亡霊の後頭部が自身の背中に叩きつけられる姿が里緒には見えて、思わず小さく悲鳴をあげた。

蹴りの衝撃で、千比呂の脛を掴んだ亡霊の右手が緩む。掴まれた圧力が無くなるのを感じながら右足を蹴り抜く勢いで、後方に一回転するとそのまま着地した。

その足が、亡霊の影を踏むとビクリと身体を強張らせその動きが止まった。そこへタイミング良く、やけくそに振り回された千比呂の御札を掴んだ右手が亡霊の胸元辺りに押し付けられた。

柔らかな抵抗の後、キンと鼓膜が震え耳鳴りを残して手応えが失せた。
それでも千比呂は、見えざる上に聞こえぬ恐怖を振り払うように御札を持った右手を闇雲に振り回し続けていた。

「ちひろ〜、もういいよ!もう大丈夫、消えたから!!」
向かいのホームで闇雲に暴れ続ける千比呂に里緒が声をかける。
「へ?」という気の抜けた返事とともに、肩で大きく息をつきながらも千比呂の動きが収まった。

「いや、見ましたか? サマーソルトキックですよ。始めて見たよ! 動画撮っておけばよかったなぁ」
「凄かったですね、ヴァン・ダムみたいでしたね!」
大多駅長と田仲さんが千比呂のアクションに興奮冷めやらない様子で盛り上がっていた。

「本当に何もいなくなったのか?」
宝先生が里緒に耳打ちするように顔を近づけてきた。
念の為周辺をぐるりと見渡し里緒が確信を持って応えた。
「……うん。大丈夫です。御札が当たった後、ピカって光って黒い霧みたいになって散って消えちゃいましたから」
そう言って振り向いた眼の前数センチの所にあった宝先生の真剣な眼差しに驚いて、里緒は顔を真っ赤にしながら飛び退いた。

「近い! 近い! 何考えてんですか!!」
宝先生は、急にどうしたと言わんばかりにぽかんとした表情を浮かべている。

「ヘイヘ〜イ、なにイチャついてんすか〜?」
連絡階段をたらたらと降りてきた千比呂が冷やかした。
「こっちは怖い思いしてきたってのに、何呑気にイチャイチャしてるんですかぁ? もうこれで終わりなんですよね?」
首筋に手を当て頭をグルグル回しながら千比呂が戻ってきた。もう何言われても一切何もしませんからねという空気をまとっている。

「お疲れ様。今日はこれで終わりだよ。本当によく頑張ってくれたね」
眼鏡を光らせながら宝先生がねぎらいの言葉をかけた。

「これでお祓いは完了したってことですかね?」
大多駅長が宝先生に確認する。
「大丈夫だと思います。ただ、思っていたよりも強い霊が居たので、暫く様子を見て、気になることがあったらどんな小さなことでもすぐに連絡してください。ただ、列車の運行を妨げるような事はもうないと思います」
宝先生の説明に少し含みがあるようにも感じられたのか、大多駅長は表情を少し硬くしながら聞いていたが、最後の一言でホッと緊張を緩めたのが、端からも見て取れた。

「わかりました。なにかあったらすぐに連絡させていただきます。今日は本当にありがとうございました。もう遅いですから、今夜はホテルの部屋を取ってありますので、そちらでお休みください」
そう言うと大多駅長はにこやかに手を差し出し、宝先生と握手を交わした。

「ホテルに泊まれるんですか?」
ちょっとワクワクしながら千比呂が尋ねる。
「ええ、少し前に南口に出来たリゾートホテルで、評判は良いみたいですよ。お部屋はひとり一部屋ずつ取っておきましたから、ゆっくり休んでくださいね」
大多駅長は、千比呂と会話できるだけでそれはもう嬉しそうだ。

「そんな、申し訳ないですよ。私達なら先程の会議室で時間を潰しますから……」
あろうことか、宝先生が折角の申し出を断ろうとしている。

里緒は、いつの間にか自販機で買い込んだジュースを人数分抱えながら先生に体当たりをした。
「何言っちゃってるんですか!今からキャンセルとかしたらお金だけ取られて無駄になっちゃいますよ!ねえ?」
大多駅長に同意を求める。

「そうですよ、若い女の子をあんな所で朝まで居させられませんからね。どうぞお気になさらずに」
満面の笑みで微笑みながらの大多駅長の申し出に、宝先生も申し訳なさそうに引き下がった。

「何? くれんのそれ。めちゃくちゃ喉乾いてたから助かるわ」
里緒の抱えたジュースの山に千比呂が手を伸ばすと、ちひろはこれねと、コーラを渡された。
「この際なんでも良いよ。」
一気にコーラを飲み干す千比呂の姿を見て、宝先生がイタズラっぽく笑って言った。

「全力。コーク。」
先生を睨みつけながらもコーラを飲むのをやめない千比呂を見て、みんなが笑った。

ホームの上で駅長と別れて、田仲さんが同伴して工事部の詰め所に着替えに戻ることになった。

相模線のホーム端から階段を降り、来た道を戻る。
階段の途中で宝先生は立ち止まり、振り返った。
今、確かに聞こえた。
子供の声で。
「ありがとう」と。

目を細めて辺りを伺っても何も見えない。
立ち尽くす宝真玄の先で、誰も乗っていない客室の明かりだけを灯した東海道線の回送電車が下り方向に駆け抜けていった。

【影踏】その⑥へ続く

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