圧倒的なGiveが作る「優しい世界」
41年間生きてきて、最近たどりついたひとつの仮説。
もっともらしく、合理的で、契約のような制約から始まる世界。
そんな世界が、今世の中に溢れている。
月に160時間働く、そう約束するならと給料を支払う。
予算で50万円用意する、そう約束してくれるならと望みのものを作る。
ゲームを買ってもらえる、その約束があるから勉強する。
こうした、自分以外の誰かに課す条件から始まる世界は、
一見便利で、都合がよく、互いに安心できる世界であるかのように感じられる。それなのに、今、あたりを見渡してみると、本当に優しいと感じられる世界は少ない。少なくとも私はそう感じている。
これまで、それは言葉にできない違和感でしかなかった。
世の中には様々な人がいて、そんな世界がまわっていくためには、なんらかの仕組みが必要で、それを整えていくと、結果こうなる。
いわば、仕方のないものなのかもしれない。
多くの人と関わり、多様な経験を重ね、
自分にできることが増えてきた今だから言葉にできたのかもしれない。
圧倒的なGiveから始めることの大切さ。
アドラー心理学では、自分の課題には自分が立ち向かうしかないというものがある。他者の課題に立ち入ってはいけないし、自分の課題に他者を立ち入らせてもいけない。突き詰めると、自分のことは自分にしかできないし、他者のことはその人にしかできない。時に、誰かが助けてくれることはあるが、それはあくまで、その人がその人の課題に向き合った結果でしかない。
もし、近い感覚の人たちと、小さな世界、小さなコミュニティを育てていけたら、優しさが身近に存在する世界になるのだろうか。
そして、その先にどんな未来があるのか、この目で見てみたいと思った。
昔は、身近にGiveが溢れていた
田舎のワンシーン。畑で野菜がたくさん採れたし、近所の人や顔を合わせた人におすそ分けする。我が家では、田舎のばあちゃんや実家の母親に、もらいにいくことはあったが、身内以外からもらうことはあまりなかった。
それがなぜか、最近、モノをもらう機会が増えてきた。
「ネギもって帰り〜」と近所のおっちゃんに渡されたり、「山菜とってきたから少しもっていくね」と、近くに住む奥様がわざわざ持ってきてくれたり、好意に甘えて居座って仕事をしているのに、売り物の飲み物を「ハイ、どうぞ」とお店の人がふとくれたり。
10年前の自分なら、もらったら返さなくてはいけないと思ってしまい、逆に面倒だと感じていただろう。しかし最近では、こういうのがとても温かくて、ほっこりした気持ちになる。心の芯から嬉しくなり、ついつい笑顔でたくさん話してしまう。
昔はこういうことが、今よりも身近に溢れていた(のだと思う)。
目に見える誰かのために、自分ができること。
それを、誰もが今より少しだけ分かりやすく持っていた。
畑もそうだし、町の電気屋さんもそう。
それが今は、直接見えない誰かのために働いていると思っている。
会社に行っても、仕事は指示されたことを作業としてこなせばよいことが多くなった。働き方や、仕事の内容は昔から変わったかもしれない。それでも、目に見える人は近くにもいる。誰かと一緒に働いているというのは変わらない。顧客だけがGiveの対象ではなく、本当は同僚もGiveの対象のはずなのに。今でもたくさん、誰かのためにできることは近くに転がっている。それは、何も変わらないはずなのに、何か特別なものをがないと、自分は何もできないかのように感じる。そんなことないのに。
Giveできること
「自分にできることなんて、、、」
つい先日。元同僚と久々に話す機会があり、そこでも同じ言葉を聞いた。
してもらえたこと、してもらえなかったこと、してもらえるべきだったこと。そう考えたくなる気持ちも、少しはわかる。10年前は、自分も同じようなことを言っていた気がする。これから10年後、この時感じていたことを、どう感じられるようになっているか、彼に振り返る機会があるといいなと思う。
今の時代、多くの人は条件や制約の元で、社会という世界に入る。
会社に勤めるということは、そういうことなのかもしれない。
これが居心地の良い人もいるだろう。次第にそうではないのかもしれないと考え始める人もいるだろう。どちらにしても、はじめはこの中で考えあがくしかない。生活できるだけの稼ぎを生み出す、スキルやコネクションが最初からあるわけではない。それでも、できることは何かを考えやり続けるのか、まぁいいかとそれなりでやめておくのか。そこは、大きな分かれ道となる。常に走り続けているとへばってしまうが、適度に休みながらコンスタントに走り続けているほうが、より遠くまでいける。
これまでを振り返ると、箱に関わらずできることをやり続けてきた感覚はあった。それが今、スキルと経験になり、ようやくいろいろな人に胸を張ってGiveできるようになってきた。そして、それが今の時代が必要としているITだったことは、幸運だったと思う。
されて嬉しいGive
誰かに何かしてもらえるというのは嬉しいことだ。
同じくらい、誰かのために何かできるというのも嬉しいことだと思う。
皆さんは、そう感じたことはあるだろうか?
自分が誰かにすることは、大きく高尚でないといけない気になりがちである。しかし、誰かにしてもらうことは、ちょっとしたことでも嬉しい。ひとは、意外と大きなものをひとに期待してはいない。相手をよく知らない状態で、いきなり大きなものを狙っても、的外れになることが多い。小さくて、身近なものを積み重ねてようやく、ひとまわり外から見えるようになってくる。その繰り返しが、自分のできるGiveを多様化させていく。そうなると、さらにいろいろな人にGiveできるようになってくる。そして、たまに誰かが"神"だと、おもしろがって言ってくれる。その言葉を、そのまま真に受け、気持ちよく生きているのも、悪くないなと最近は本気で思う。
イマからココから始める圧倒的なGiveの世界
小さく身近な積み重ねがないと見えないことがある。大きさは関係ない。
小さなところからやってみて、自分なりの肌感を掴むのが重要だと思う。
世の中には、自分にはできないことで困っていたり、立ち止まっている人が、思っている以上に身近に存在している。そんな人たちのために、小さくても圧倒的なGiveから、関わりを始めてみてはどうだろうか。そうして始めた世界が、本当に「優しい世界」なのか。それは、是非皆さん自身で確かめてみてほしい。
最後に気をつけたい点がひとつある。
それは、見返りを求めた時点で、それは圧倒的なGiveではなくなるということ。結果的に、何かが返ってくるかもしれない。何も返ってこないかもしれない。それがいつなのかもわからない。
不思議だが、それでいいと思っている人たちの間には、自然といろいろなものや気持ちが流れている。淀みが少ない。
見返りを期待してしまうことは、今のありふれた世の中でやればよいだろう。それも、きっと自然なことだと思う。我々は少なくとも、そういう世界で育ってきている。ある意味仕方がない。
それでも、ほんの一部だけでも、圧倒的なGiveに溢れた世界に浸っていられたら、これから見えてくる世界は大きく変わってくるのではないか。
私は、そんな風に確信している。
最後に。
わたしたちが一番はじめに体験する世界は、
実は圧倒的なGiveで始まった世界である。
命が授かった瞬間から、
そこにその身をおいているんだということは、
頭の片隅においておいてもいいのではないだろうか。