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脱構築的観点から検証する「ボボボーボ・ボーボボ」の偉業

深夜テンションで執筆したガバガバ理論ですが悪しからず

「人間は永遠に構造の奴隷である」
こう、レヴィ=ストロースは言った。
これはつまりどういうことか。
人間の行動には常に何らかのパターンというものが存在し、行動は常に何らかのパターンと差異を持つ点で、構造が存在するということだ。この「構造」を礎に発展していった論理構造学の思想こそが構造主義であり、20世紀のフランスをはじめとした現代思想家たちに流布していった背景がある。(のちにジャック・デリダがポスト構造主義を発展させていくが)
この構造のうち最も普遍的に見られるのが「二項対立」の関係性だ。どの物語、事象、思考をとってもこの文脈で読み取ることは容易に達成可能であり、いわば人類は永遠にこの構造の奴隷なのだ。
物語を例に見てみよう。物語には、大きく分けて「悲劇」と「喜劇」の二項対立構造が存在する。

「悲劇の対立概念で,悲劇がだいたいにおいて主人公の死で終るのに対し,喜劇は幸福な結末 (結婚など) をもつ。 また,悲劇が歴史上の人物や高貴な人物を登場させるのに対し,喜劇の人物は同時代の庶民であることが多い。 喜劇は人間の性格や行動,社会のあり方などを批判的に描いて観客の笑いを誘うことをおもな目的とする。」(コトバンク)

https://kotobank.jp/word/喜劇-50231#:~:text=悲劇の対立概念で,もな目的とする%E3%80%82

シェイクスピア作品ではこれらが最も顕著に描かれている。
身近な有名どころで言えば、ナルト、ドラゴンボール等ジャンプの多くの連載は努力、勝利、友情の三第構造を掲げており、基本的に喜劇型で終わることが多い。それ以外では進撃の巨人的な悲劇的要素を含んだ漫画もジャンプ外で展開されている。
ここだけでも、喜劇か、悲劇か。勝利か、敗北か。もっと言えば、善か、悪か。これらの二項対立は挙げていけばきりがないほど存在する。ある一定の流れは存在し、全くもって突拍子のない展開など、人間の想定外を往く作品など定義上不可能である。

と思っていた。

そう、ボボボーボ・ボーボボに出会うまでは…

これら構造の想定域の遥か遠くを歩み、脈絡、構造、展開それらの前提を「ハジけ」の一言で一蹴する「ハジけ」さといったら、これはもう不条理演劇以上の新しい「芸術」の域をいくものであろう。

完全に新しい作品を作り出すことは何人にも不可能である。だからこそ、指数関数的に作品数、それに伴う構造数が増える現代社会において、「構造」に縛られない新鮮なストーリーを提供するのは至難の技になりつつあるのだ。それを、ボーボボは一定の形で達成している。

【公式アニメ】『ボボボーボ・ボーボボ』傑作選 第7話「第10回ミスにわとりクイーンにわ子と謎の番人ソフトン」

SHONEN JUMP CHANNEL

このEPより、コミカルな描写の喜劇であることを踏まえても、あまりにもあらすじと展開の脈絡がないことが窺えるであろう。

まず、序盤のレーシングシーンである。レースなんだから、車に対して車で応戦するのがセオリーである。しかし、もっと「ハジけ」てみよう。掃除機で良いではないか。ただ、車対車であることに変わりはない。ここで頭を柔らかくしてみる、するとボーボボの頭が割れ、「御用だ」と叫ぶ岡っ引きが現れる。この「頭」から、まったく時代背景も無視した「岡っ引き」が出てくる脈絡の無視が伺える。誰が予想できた展開であろうか。

ここで、ドンパッチは崖から落ちてしまう。そうすると、死が連想されるであろう。つまりは病院のシーンが入るのがセオリーである。しかしここはボーボボワールド。「悪」の象徴である敵のアジトに、救急車で突っ込み、麻酔は靴を使って、消しゴムとコンパスで手術をしよう。支離滅裂なことを言っているように見えるかもしれないが、それこそがボーボボの評価されるべき点である。
「事故」→「手術」という大きな構造は維持しながらもミクロ視点では脈絡の無視が常習的に行われ、そのようなミクロ視点での脱構築が作品全体に散りばめられていることで、ボーボボは現在の「ハジけ」たイメージ像を確立しているのである。

確かに一応、読者が最低限理解するための大筋として、「毛狩り」の要素をきっかけとし、ボーボボの「善」、そしてゲハの「悪」ははっきりと突きつけられている。そして上記のように、マクロ視点での構造はしっかりある。これは構造だ。

ただしこれは作品としての体裁を保つための最低ラインだと私は捉えている。漫画として市場に発表する以上、このラインを超えてしまってはまずボーボボ存在自体が危ぶまれてしまうのだ。

この点において、ボーボボは「作品としての最低限の構造を保ちつつ、ほぼ完全なる作品の脱構築に成功した」極めて稀有なストーリーであるとの評価が可能である。つまり作品として世間に知られるだけの構造的体裁を保ちつつも、ここまでの脱構築を表現したのは偉大なる功績であるということだ。

(ボーボボでは、超王道の普遍的構造を15秒ほどの尺で用意し、それらを全く脈絡のない形で繋ぎ合わせており、それらはマクロ視点での構造的評価をもなんかさせている。加えて、それらは作品の脱構築感を皮肉にも構造の構造同士の脱構築という形で行なっているのである。)

もう一つ別の観点から評価するなれば、ボーボボは作品における「構造」の理解の手助けとなる良い教育資材である可能性を秘めている。王道ジャンプ作品のドラゴンボールは、ストーリー構成、展開などに「強さ」の筋を持ち合わせており、それはストーリーを構成する要素の全てが繋がってくるからこそ理解可能である。対して、ボーボボは一見理解不能な展開の組み合わせであるため、構成上のミクロ的工夫がどれだけ主題の筋を表現する上で効果的かを半ば逆説的とも言える形で示しているのだ。非常に教育的である。(PTAから教育上悪い、との苦情が来ていたが、今教育的価値が説かれてしまった)

以上より、ボーボボは構造を無視して「ハジけ」たことで、現代作家の陥りやすい「構造」のトラップを破壊してしまったのである。作品として世間に知られるだけの構造的体裁を保ちつつも、ここまでの脱構築を表現したのは偉大なる功績である。

将来的には、不条理演劇作品の王道(これも皮肉な表現のような気がしますが)、サミュエルベケット作「ゴドーを待ちながら」と、週刊少年ジャンプ連載漫画、澤井啓夫作「ボボボーボ・ボーボボ」を、このような構造学的観点から比較論評していきたいと感じた。

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