惑溺の日本人
福沢諭吉は惑溺(わくでき)という概念を多用したことでも知られ、「日本は江戸期までは儒学に惑溺し、明治以降は西洋文明に惑溺していた」とった感じに当時の世相を喝破していた。自分たちの価値基準こそを絶対化することを「惑溺」と定義するならば、この2~3年はワクチンに惑溺(わくでき)する人類だったとも言える。
グローバリズムで情報通信手段も発達して共有知を得ることが人類の進歩と思われてきたが実際は必ずしもそうはならず、結局人間は見たいものしか見たくないからネット空間はエコーチェンバーの巣窟になり、「自分は正しいはず、異なる意見は排除」という惑溺から結局令和の日本人も逃れられてはいない。世の中がオカシイのはどこかに「悪」がいるからだ、という考に惑溺するのは結局自らひとりひとりに内在化する「悪」を見ぬふりすることに繋がる。
ようやく終わった「マスク社会」も、一人の絶対権力者がそれを決定したわけでなく、思いやりと称しひとりひとりがひとりひとりを監視し合うことで出来上がってしまい、「責任者不在」であるからこそ今までなかなか終わらなかった。「欲しがりません勝つまでは」で戦中に現出した贅沢監視隊も特定の権力者によってできたものではないし、大政翼賛会も政党が自ら解党して自らそこに加わっていった。日本における最高意思決定機関は常に空洞でこれを「無責任の体系」と評した知識人もいたが、要するに最高意思は世間の「空気」なので特定の責任者は誰もいない。
だからこそひとりひとりに「悪」が内在化しているとあえて考えなければ、同じことをこれからも何度も何度も繰りかえすことになる。学校や職場で特定の人をちょっと無視しただけのつもりがいつの間にか自殺するほど追い込まれてたといった話も、ひとりひとりに「悪」が内在化された「無責任の体系」という意味でそれに近いかもしれない。