陽、陰、007、消えゆくままに任せるな The Living Daylights - a-ha
Hey driver, where we going?
運転手さんよ、どこへ僕らは行くんだい
I swear my nerves are showing
本当の本当に、どうも震えを抑えられない
Set your hopes up way too high
希望を掲げろ、手さえ届かない高さに
The living's in the way we die
生は宿る、まさに僕らの死に様に
Comes the morning
朝がやって来ては
and the headlights fade away
車の灯りも薄れてく
Hundred thousand people,
溢れるあまたの人々たち、
I'm the one they frame
僕は縁取られるそのひとり
I've been waiting long for
僕は永らく待ち続けてる
one of us to say
僕らの誰かが口火を切るのを
"Save the darkness, let it never fade away"
「闇を護れ、消え行くままに任せるな」と
Oh, the living daylights
あぁ、生きとし眩い陽の光
Oh, the living daylights
あぁ、生きとし眩い陽の光
All right, hold on tight now
よし、じゃあしっかり捕まってな
It's down, down to the wire
崖っぷち、間一髪の瀬戸際だ
Set your hopes up way too high
希望を掲げろ、手さえ届かない高さに
The living's in the way we die
生は宿る、まさに僕らの死に様に
Comes the morning
朝がやって来ては
and the headlights fade away
車の灯りも薄れてく
Hundred thousand changes,
溢れるあまたの移り変わり
everything's the same
どれもこれも同じかたち
I've been waiting long for
僕は永らく待ち続けてる
one of us to say
僕らの誰かが口火を切るのを
"Save the darkness, let it never fade away"
「闇を護れ、消え行くままに任せるな」と
Oh, the living daylights
あぁ、生きとし眩い陽の光
Oh, the living daylights
あぁ、生きとし眩い陽の光
Oh, the living daylights
あぁ、生きとし眩い陽の光
Comes the morning
朝がやって来ては
and the headlights fade away
車の灯りも薄れてく
Hundred thousand people,
溢れるあまたの人々たち、
I'm the one they frame
僕は縁取られるそのひとり
Oh, the living daylights
あぁ、生きとし眩い陽の光
Oh, the living daylights
あぁ、生きとし眩い陽の光
Set your hopes up way too high
希望を掲げろ、手さえ届かない高さに
The living's in the way we die
生は宿る、まさに僕らの死に様に
Set your hopes up way too high
希望を掲げろ、手さえ届かない高さに
The living's in the way we die
生は宿る、まさに僕らの死に様に
Set your hopes up way too high
希望を掲げろ、手さえ届かない高さに
The living's in the way we die
生は宿る、まさに僕らの死に様に
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007定番、モーリス・ビンダーによる影絵シークエンス。前衛芸術なのか、イヤラしいだけのエロ影絵なのかは議論の余地がある。でもまぁ後者ってことで良いんじゃないか、007だし。
難解で何を言ってるか難しい歌詞だけど、訳してみるにあたって、一応色々考えてみた。a-haには明るくないので、ボンド映画「リビング・デイライツ」のテーマ曲として、というところにしか重点は置けなかったものの。
『リビング・デイライツ』は4代目ボンド、ティモシー・ダルトンの一作目であり、この作品の意味や意義を捉えるには、先立つ3代目ロジャー・ムーア期に遡る必要がある。
ムーア期において、ジェームズ・ボンドはエレガントでスマートで、成熟しきった、完結したキャラクターとして完成された。これがロジャー・ムーアとムーア期が成した偉業である。ボンドが1番勢い付き、脂が乗っていて、でもまだまだ荒々しさがあったのが1代目コネリー期ならば、ムーア期は洗練されきった円熟期であった。しかしそうなってしまったが最後、作品というのはマンネリ化、陳腐化していくしかない。これは物事の常である。こうしてボンドは他のアイコンやシリーズを追いかけ追い抜き、その先の何かしら最先端を走る立場から、時代遅れのアイコン、フランチャイズへと堕ちていくのを何とか堪える側へと回ってしまった。
これは歴史的背景を知らずとも作品そのものを見るだけで十分に感じ取れてしまう。例えばムーアの後期は彼がもういい歳だったこともあって、アクションは基本スタントマンがやらざるを得ず、彼自身がやった数少ない殺陣は全くキレがない…。その癖、作品上のイメージでは未だ誰も勝てない最高最強のエージェントで、基本余裕ぶってて、しょうもないギャグばっか言ってて、趣味も良く教養があり、女にもモテモテで……。「まぁそういうもんだから」と受け入れる他ない程度に、何かが盛大にズレてしまっているのである。
ムーア期抜きにしてボンドは語りようがないし、ムーアはある意味で最もボンドらしいボンドだった。がしかし、完成させ、体現したが故に、ムーアボンドは、「ボンド映画がボンド映画のパロディをやってる」状態でもあった。誰が悪いでもなく、シリーズが長く続いた以上はそうならざるを得なかったのだ。
よって代替わりによるフランチャイズのリブートが図られた。ボンドにかけられた、ムーア期に成立してしまった呪いを払わねば、ボンドは破滅に向かうだけだった。何か新しいことをせねばならない。何度も候補に上がりながら、「若すぎる」との理由で採用されてこなかったダルトンがついに選ばれることになった。話としても、より呪いを払うための案もあった。『リビング・デイライツ』の初期案では、00エージェントになる前のボンドと、現007が共に任務に挑み、007は殉職、若きボンドは任務を通して成長し、単独で任務を達成、最後には007に昇格し、一作目『ドクター・ノオ』のオープニングに繋がる……なんてのまであったという。
気持ちは分かるし、スクリプトを読んだ訳ではないので何とも言い難いが、まぁやりすぎだと思う。ドクター・ノオのショーン・コネリーが00になりたてってこたぁ絶対ないだろ。昇格後、時は流れ……みたいなのが挟まってドクター・ノオなのかもしれないけど。結局没にはなったが、このアイデアは6代目クレイグの一作目『カジノ・ロワイヤル』で形を変えて復活することになる。
紆余曲折あって、『リビング・デイライツ』の話自体は割といつものボンド映画っぽいものに収まった。それでも映画のテイストや、ダルトン演じるボンドは前作までとは様変わりした。(注:まぁこれは分かりやすい歴史観であって、アホボンド映画の頂点『ムーンレイカー』以後は、ムーアのままシリーズの方向転換を図ってはいた。決定打になったのが代替わり、ということであって、ムーア期から既にシリアス路線は模索されていたというのが歴史的には正確だろう。)
新しいボンド映画では、よりシリアス、よりハードなアクションや展開で、ボンドは「ちゃんと」追い詰められるようになった。ユーモアやエレガントさよりは、プロとして仕事を貫徹する使命感や、人間としての感情をしっかり持ち、時にはそれに振り回されもするキャラクターになった……。
以上が映画『リビング・デイライツ』の立ち位置になる。このような方向性がa-haにも伝えられた上で主題歌が発注されていたはずである。
the living daylights 意味 で検索すると、意識、正気、生命、などという意味だと出てくる。が、これが正確だとは僕はあまり思えない。何故ならこれはこれ単体では使わない言葉のようだからだ。
基本、”the living daylights out of”という固まりで使い、beatとか、frightenとかを頭につけて、「死ぬほど殴る」とか「おかしくなるほど怖がらせる」とかいう感じの意味になる。元は18世紀に成立したスラングで、この頃から「普通に生きている状態ではなくする」という文脈で使われていたらしい。
これを踏まえて「じゃあ頭とお尻を取ったら、命とか正気とかいう意味になるね」という考えのもとに上のやつは書かれているのだろう。しかし、日本語の慣用句がそうであるのと同じく、イディオムの一部を切り出しても、その言葉は成立してない何かでしかないのでは?と思う。たとえば、日本語でも「あいつが再び日の目を見ることはないだろうぜ」みたいに言うよね。かといって、日の目、や、日の目を見る、が生きている、という意味かと言われると違う気がする。陽の光が瞳に反射する、それによって瞳に「宿る」光と、生命や正気を関連づける感覚は分かるけど。
ボンドシリーズには、生きるとか死ぬとか殺すとかが入ってるイディオムの一部だけ取って来てるので意味がよくわからんというタイトルが他にもある。とはいえ、不自然な言葉だから訳せません、で終わったらこの記事は意味がない。
別の視点から考えてみるならば、ボンド映画の主題歌、という括りによる比較分析だ。007の主題歌はテーマとしては生と死、エロスとタナトス、具体的な言葉選びとしては、銃や殺し合いや諜報活動や色恋、セックスに関するものが選ばれる傾向にある。『the living daylights』は色事を思わせる要素はないが、後は概ね、ちゃんと「らしい」感じになっている。印象的に繰り返される、”The living’s in the way we die”はいかにもそれっぽくて、超グッと来る。映画のタイトルを何度も言うルールも守っていて素晴らしい。そういう慣習めいたものがある上で、それぞれの作品の内容や、アーティストの作風によって各テーマ曲は様々に振れ幅を持つ。
ではThe living daylightsの独自要素、お約束や慣習からはみ出す要素が何かと言えば、それはずばり、”Save the darkness, let it never fade away”だと思う。そしてここから考えれば、the living daylightsという言葉は、まんま文字通りの意味としてdarkness、闇や影や死を消し去ってしまう、光や陽や生を象徴するものとして置かれている、と僕は考えている。考えてみた。
4代目以降、ボンドはずっと、陳腐化した、時代遅れの遺物であるというどうしようもない現実と格闘し続けることになった。そのもがきを昇華させて興行的にも批評的にも成功するのは6代目クレイグボンドまで待たねばならない。そのクレイグ期の成功を決定づけた「スカイフォール」における、ジュディ・デンチ演じるMの台詞、「おっしゃる通り、我らは生ける亡霊に過ぎないが、それでもまだ存在し続けている」というニュアンスのあのシーンを、この曲は彷彿とさせるものがある。
いずれ必ず死ぬ定めにある、つまりはまさに今この瞬間も死につつあるボンド、生きとし生けるすべてのもの。光と何ら変わりなく、意味を持ち、意義を持ち、何より確かにそこにあるはずの闇、陰、死。それを覆い隠し、さも無かったかのように拭い去り、光、陽、生の側こそのみが良きものなのであり、自明のものであると言わんがばかりのthe living daylights。そしてそのあり方を当然のこととして受け入れるほとんどすべての人間たち、、
とはいえ、人間が生きている生き物である以上、光や生を前提に存在していながら、それらを否定できるわけがない。それは分かってる。がそうだとしても、この「光の独裁」はあまりにおかしいんじゃないか。だから「僕」は、誰かが口を開くのを待っている。正しくなさもまた、正しさと同じぐらいに「正しい」はずだと本当は皆分かっているはずだ、という何とも微妙でグレーな立場。それがこの歌の「僕」が取る立場だ。そこから行けば、サビの”Oh,the living daylights”は、そんな「僕」の光に対する違和感、憎しみ、がしかし否定出来るわけもない崇拝、畏敬、が入り混じった感情の発露ということになるのではないだろうか……
……という解釈に基づいてこの曲を訳した。英語とかよく分かんないし、合ってんのかどうかは知らない。
とりあえず僕は、この僕の解釈に従って、『The living daylights』はボンド映画の主題歌の中でも指折りの一曲だと思っている。この評価は一般的ではないようだけど。a-haとボンドシリーズの作曲者ジョン・バリーが揉め、a-haと製作陣が揉めたこともあって、この曲はアメリカではリリースすらされなかったという。映画で使われたバージョンと、a-haのオリジナルアレンジがまるで違うのも面白い。
時間がわだかまりを解決してくれたのか、後々出たジョン・バリーのコンピレーションアルバムにa-haはちゃんとコメントを寄せ、「僕らが作った曲に、バリーがアレンジを施すと一発でボンドっぽくなったんだ、すごいよね」的なことを言っていたそうな。
ここまでの話を何となしに捉えるなら、じゃあボンドは消し去られようとする闇、陰、死の側に属する存在なのね、となるかもしれない。意味もなくややこしい、言葉遊び、観念遊びに過ぎないかもしれないが、いやそういうことでもないのだ、と一応言っておきたい。
ではここまでの話に基づくならば、ボンドとは一体何なのか、どういう存在なのか。
人々やボンドの味方やボンドの敵が何かしらの立場を選び、それによって自分が何者かを定めようとする。それが普通の人間の普通のありようだ。しかしこれに対して、ボンドはずっとその境目をふらつき、狭間を歩き続ける。そしてボンドはこれによって境界線そのものを曖昧にしてしまう。ボンドというキャラクターは、ヒーローとかアンチヒーローとかヴィランとかいう境目そのものへのアンチであり、構造それ自体に面白半分で唾を吐きかける「個人」であることがボンドの核なのだ。正しさ、正しくなさ、の二項対立のどちらの極からしても、さらにずっと「正しくない」のがボンドの魅力なのである。
これがボンドをボンドたらしめ、そして現代には一層そぐわないヒーローにしている。もはや、光の眩さは増すばかりで、正しさが大手を振って大暴れし、人をぶん殴ってリンチして回っては開き直っていてもう目も当てられない。それに呼応する形で、闇はその濃さをどんどんと増し、正しくないというレッテルの価値、正しくなさを主張することの「正しさ」は鰻登りで、こちらも見るに耐えない惨さだ。
どっちを向いてもうんざりする。だから、僕は待ち続けている。いつか、僕らの誰かが口火を切るのを。「曖昧さを、空虚さを、何でもなさを、どうでもよさを護れ、消えいくままに絶えさせるな」と。
a-haのオリジナルアレンジ版。
※2023年02月に書いたやつの改訂、再録。文章がクソ長く、もはやそっちがメインと化しているがこれでも削った。誰に頼まれた訳でも無いのに6500字も書かなくたって良いだろう。スイッチ入ってたんやろね。あるいは逆に、こんな何千字とか一万何千文字ある記事の山をネットから消しちゃって、ひとりで抱え込んでるのもアホの極みという感がある。