七、穴
新大久保駅の近く、百人町に越してきた。父六十五歳、母五十八歳。俺は二十五歳。何度目の再出発か。
仕事を探すが、両親を養い夜学の資金を賄えるだけの良い職が無い。
夜学で通うカール・マルクスの「資本論」のゼミナール。昼間に鍬を振るっていないから、元気が有り余っている。戦争でぽっかり空いた心の穴に、知識をたっぷり詰め込んだ。詰めても詰めても、まだまだ足りないような気がした。
「気持ちはわかるが、悪い話じゃないだろう。」
戸山ヶ原の家で一時居候をしていた渋井は、都の総務局で働いている。給与係に空きが出たから、やってみないかと言う。
農地を取り上げた連中の本拠地だぞ。そう言いたかったが、喜ぶ父と母の顔が浮かんだ。
「どう思う?」
父と母に相談したとき、情けないような気がした。
「良い仕事だのん。」
そう言ってもらえて、安心した。これは両親の為なんだと、自分に言い聞かせることができた。
ついこの間まで鍬を振るい肥たごを担いでいたのが、今度は役人だ。給料の支払い伝票を書き、袋に現金を入れる。
「悪いが、へそ繰り用に別に書いてくれ。」
「たのむ、後生だから前借りさせてくれ。」
あんたたち、役人だろう?初めはそう思ったが、直ぐに慣れた。
隣席の女性は自称フェミニスト。メンスになると機嫌が悪くなり、仕事の相談をしても返事をくれなくなる。
昼休みには皇居前広場で、渋井と彼を慕う三人の娘たちと弁当を囲んだ。他愛の無い会話。
ともちゃんは、男三人女五人きょうだいの、三番目。年端もいかぬうちに妹をおんぶし弟の面倒を見た。
苦労してきた筈なのに、まったくと言って良いほど屈託が無い。何でも無いことでケタケタと大笑いする。
太陽のような娘だな。あちこちにぽっかりと穴が空いてしまった俺は、お月様だ。太陽と月。俺は随分ちっぽけだな。そんなことをぼんやりと考えている内に、昼休みは終わってしまう。
渋井に夕食に誘われた。赤坂の高級料亭の、奥まった一室。彼は馴染みらしく、女将に気軽に声を掛ける。襖を開けると、市場がいた。
「GHQの要請だったんだ。」
市場の表情は読み取れない。許しを請うているのか、理解を求めているのか。
元よりあんたに、恨みは無いんだよ。あんたは、職務を誠実に遂行しただけのこと。負い目に思うことなんかないさ。俺たちみたいな虫けらが、大手を振って歩けるようになるにはな、市場事務官。世の中の仕組みを変えなくっちゃあ、駄目なんだ。
庁舎の窓から、都議会前の広場が見える。ここで一年前に行われた東京都公安条例反対のデモで、一人の青年が警官隊に殺された。
俺はここで何をしている?日本は、世界は、変わろうとしている。薄暗い壁際で、給料袋に現金を詰めながら考えている。もっと学ばねば。もっと、もっと。
1950年8月、GHQが全労連の解散を指令。9月、公務員など公職のレッドパージの方針が閣議決定。10月、国連軍が朝鮮の三十八度線を突破、米軍が平壌を占領。11月、トルーマン大統領が朝鮮戦争で原爆使用もあり得ると発言。12月、朝鮮人民軍が平壌を奪還。NATO軍創設、西独再軍備が決定。
年が明けた。卒業論文に取り掛かる。しかし、理屈を頭に詰め込んでばかりで、何になる?その身を投げ出した同胞たちがいる。俺はここで何をしている?世界は変わろうとしている。日本も変わろうとしている。
卒業試験を放り出し、都庁も辞めた。
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