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八、遅刻の常習犯

午前九時三十分。引き上げられた出勤簿につられて、今日もその男が総務課にやって来る。
遅刻を揉み消しに来たのに、悪びれる様子も無い。

「ネ、ごめんね。今回も頼むよ。」
渋井さんの紹介で入庁してきたらしい。親切そうな笑顔と気難しいしかめ面がコロコロ入れ替わる、不思議な男だ。

お昼休みに皇居前広場でお弁当を囲む。渋井さんと私、総務課のお友達と、遅刻の常習犯。

渋井さんは人の話を聴くのが上手い。わたしたちの他愛のないお喋りに上手に付き合ってくれる。
「彼は理想の上司ね。」
同僚からも羨ましがられる。

以前に渋井さんからお付き合いを申し込まれてお断りしてしまったことは、誰にも話していない。

遅刻男は、いつも自分の話ばかり。さっきから私たちの噂話にウンウン頷いているけれど、上の空だってことは誰にでもわかる。

でも、彼の話は面白い。政治のことやら経済のことやら何でもわかりやすく教えてくれて、大したものだと思う。学校の先生の方が向いているんじゃないかしら。

「あいつな、仕事の後に大学に通っているんだ。」
渋井さんが教えてくれた。

「朝は遅刻してくる癖に、定時になったら一目散だ。紹介した俺の身にもなって欲しいもんだよ。」

「彼は何の勉強をしているんですか?」

「経済学なんだけどな。」
渋井さんの表情が少しだけ曇った。

「けど、何ですか?」
困った渋井さんの表情は珍しい。

「あいつ、アカなんだ。」
困ったような笑っているような、不思議な表情。

「アラ、そうですか。」
渋井さんにこんな顔をさせるなんて。面白い人ね。

真似するわけじゃないけれど、わたしもフランス語の勉強を始めてみた。

休み時間や眠る前に教本を読む程度だけれど、少しだけ世界が広がったような気がした。

「あいつ辞めたよ。」
渋井さんからそう聞いたとき、驚かなかった。
退屈だったんだろうな。それともどこかに居場所を見つけたのかしら。

私のことも迎えに来てくれないかな。
ふとそう思った。

私も、退屈しているよ。

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