今の自分に合った画材をえらぶ。それは新しい靴を履いて出かけるようなものかもしれない。
9歳の誕生日に親友のお母さんから貰ったWinsor&Newtonの水彩絵の具。
最初は貴重すぎてなかなかそれを使って描くことができなかった。緊張してしまうのだ。
敷居が高い感じ。
中学生になってからやっと日常的に使えるようになって、それ以来旅でもどこでも持っていっては、好きなものを描いてきた。
だけど、最近、今の私の描きたいものは、これでは描けないのかもしれない、と思うようになった。
前はなるべくそっくりに、写真のように描くのが目的だった。「上手い絵」
あるいは、ぼかしを使って癒されそうな絵を描くとか。「狙ったかんじの可愛い絵」
最近は、自分の美しいと思うもののよさを表現したいという目的が出てきて、
それはそっくりに描くとか、細かく描くことでは表せないようだった。
すごく時間をかけて、下書きして、清書して、丁寧に水彩で色を重ねていく。
でも時間をかけるほどに、筆を重ねるごとに、より美しさから離れていくように感じた。
例えば、ライトのかんじやお洒落な雰囲気が素敵なオランダのブックカフェ bookstore
これじゃない感。
例えば、イランの革製品の仕立て屋さん。作った鞄や材料が壁やそこらじゅうに吊り下げられたり、並べられていて、そのごちゃごちゃしているのに全体としてとても美しい感じとか。
全然まとまらない、気に入らない絵になってしまった。
(向かいのお店のおじさんが甘いお茶をご馳走してくれて、思い出としては大切なのだけど)
今年は絵をコツコツ描きたいと思ったのと、滞在先が美しいもので溢れていたので、年明けからちょこちょこ描いてみた。
けれど、全然だめなんだ、これが。
御節やお雑煮は全然美味しそうじゃないし、自分で見返していて、「わぁ〜!」となる喜びがないのである。
細かいのに、どんなお料理なのか分からないような。
なんとなく、コスパが悪い感触。
時間とパワーを注いでるのに、うまく形になってない感じ。
もちろん、久々に食べものや犬を描いたということもあるから、1/1に描いたものより、1/2に描いたもののほうがいい感じにはなっている。でも…
1/2の夜の台所で、とてもグッとくる風景をみつけた。それはお寺のお母さんが、湯気のたつ三平汁をお椀によそっているところ。
湯気とか、美味しそうな匂いとか、台所のライトの柔らかくてあったかい光とか。
そういうものを、目に見える形で残したいと思った。
お寺のお母さんに断って、写真を撮らせていただいた。
それから、シャーペンで丁寧に下書きをして、その瞬間を描き始めた。
(今年の他の絵は、基本的にドローペンで下書きなしで描いていた。消しゴムかけるのが面倒なので。)
でも、わたしのなかに、このまま清書して、あるいはシャーペンのままで水彩で色をつけても、あの雰囲気はでないんじゃないか、という確信めいた予感があった。
だから、下書きの細かいところを何度も修正するのだけど、なかなか色をつけられなかった。
佐渡島に帰ってから、港に迎えに来てくれた友達に、勇気を出して頼んでみた。
彼女は最近狂ったように絵を描き始めた子。
うまく描こうとか、そういう浅いのんじゃなくて、描かずにいられないから、降ってくるものがあるから、何かに突き動かされるように描いている。
「この場面が本当にあったかくて、なんとか雰囲気まで表現したいのだけど、多分水彩では無理なんだよね。もしよかったら、Mちゃんのアトリエで画材を使わせてもらって、アクリルとかで描かせてもらえないかな。」
彼女がなんと答えたかは思い出せないけど、喜んで引き受けてくれ、翌日彼女のアトリエにお邪魔することになった。
1階のストーブの前のテーブルに、続々といろんな画材を集めてくれるMちゃん。
「画用紙の大きさはどうする?A3もあるし」
いや、大きいのはあんまり慣れてないし、そこまで集中力が持たないと思う、とA4をお願いする。
「描かなきゃいけない、ってものでもないしね〜」とMちゃん。
アクリルで描こうと思ったのに、なんとなくパステルのほうが私の描きたいものに合ってる気がして、パステルを使わせてもらう。
どう使うのかも、手探りで。
やり方は分からないけど、求めているものは見えている感覚。
余計なことをして、最初よりどんどん変にぬってしまったらどうしよう、なんて不安も感じつつ、こわごわ、でも淡々と描き進めてゆく。
Mちゃんが、自分で作ったはちみつかりん湯を可憐なカップに入れて出してくれる。
香りも甘さも、最高に好き。
そうこうしているうちに、それはあらわれた。
私の描きたかった、あの日のあの時間の感触。
雰囲気やあったかさや、光の「かんじ」。
細かいところは粗だらけなのに、ちゃんとその時間がそこにあった。
今までは、そこに見えているものになるべく忠実になれば、その瞬間を表現できると信じていた。
でも、どうやらそうではないらしい。
何かをぼんやり、粗く
何かを細かく、丁寧に、力を入れて描く。
そんなメリハリというか、編集を経ることで、私の感じたものが誰かに共有しやすくなる。
Mちゃんは「写真よりもあったかさが伝わってくるよ。みるだけであったかくなって緩むね〜。」と言ってくれた。
私も、写真ではイマイチ切り取れなかった、あのキッチンの美しさや、よるごはんのワクワク感が絵の方には表現できたように感じる。
これからも水彩道具は使うつもりだけど、今私が惹かれるあたたかい光には、パステルが向いているようだ。
あとは、その料理の形をしっかり表現したいというより、ざっくり書いて、その作り方や工夫などをメモしたいとき。(でも見返したときに楽しく、他の人にも見せたい。)
そんなときは、ドローペンと水彩より、ペンと色鉛筆のほうがつぎつぎいろんな料理のことが残せて良さそうだ。
(美しくて美味しいものがどんどん現れる日常では、水彩で乾くの待ってると全然間に合わない。)
絵を描く理由や目的がいつのまにか変わっていたのに、同じやり方に無意識のうちに固執していたらしい。
時々いつもと違うやり方を試しても、すぐに慣れたほうに戻ってしまっていた。
そのときの、スムーズさや楽しさを敢えて忘れて、やり慣れた方に。
やっぱり、ちょうどいいピッタリな画材ややり方を使うとき、そこには快があるように思う。
絵を描いているときの自分の感覚に、もう少し自覚的にいようと思う。
しっくり来ている?
もはや麻痺させてしまっているような違和感や徒労感はない?
それは、たのしい?
靴や服も、もうそれが今の自分には合っていないのに、使い続けてしまうことがあると思う。
でも、ちゃんとバージョンアップさせていくと、気分もパフォーマンスも上がる。
それは画材も同じかもしれない。
表現したいものに真摯に耳を傾けて、
より合ったものが他にあるかもしれない、と普段と違う挑戦をしてみること。
答えは無限にあるから。