今日もきょうとて
林のなかにある以前住んでいた家を訪ねた。
すぐ近くだが、モッコウバラとクチナシの咲く季節だけ行ってみるのだ。
ひと知れず咲いている姿は、けなげで美しい。
挿木して、クチナシの小径を作った時のことなど思い出され感慨深い。
草ぼうぼうで庭に入れない。
アーモンドの木や他にもあるはずだが。
月桃も増えているはず。
松は枯れてしまっている。
ススキが我がもの顔で君臨していてたどり着けない。
住む人がいないと林にとけ込み、強い植物だけが生き残る。
「来年も来るからね」
クチナシやひとり生きると決めた日に。
入口は草刈りがしてある。
一時間足らず、想い出の庭を愉しんだ。
民宿に行かない日は、
「さて、今日は何しよう」
忙しく働いている人には羨望の目を向けられるかもしれないが、これはこれで大変である。
ひとつでも達成感を味わえることをしないと、不安が生まれる。
「今日はこれをした、うむ、上出来だ」
あとは野となれ山となれで、ゴロゴロする。
今青空文庫で俳句の随筆を読んでいる。
漱石や、正岡子規の周りの人々のエピソード等、興味深い。
また、室生犀星が「俳句は老人文学ではない!」と本気で怒っているのも面白い。
私はどうも、文学を好むのではなく、文学者たちの生きようや、時代のようす、仲間たちとのかかわり、そんなミーハーな読み物が好きなようだ。
近代文学に名を連ねる作家は、よく文章で喧嘩を挑んでいる。
そういう随筆を、ニヤリとしながら読むのが好きである。
今日は室生犀星が、友だちの萩原朔太郎に挑まれて、腹をたてて返答している文章を読んだりして過ごした。
今日もきょうとて、草木と話すだけのつれづれの日が暮れとようとしている。
「鴉啼いてわたしもひとり」 山頭火
今日も読んでくださってありがとうございます。