「軽いキグルミじゃないのよ。」
強い風が吹いて、眼鏡を掛け直すために片方のゴムを外していた、不織布マスクが飛ばされた。
街中で、手持ちの最後の一枚だったから、慌てて手を伸ばして振り向いた途端に、街灯に強かに頭を打ち付けて、歩道にひっくり返った。
「大丈夫ですか。」
眼を開けると、白ウサギの着ぐるみの若者が居た。
声から推察するに、若者だったが、着ぐるみだったので定かではない。
この近くで、ビラ配りでもしているのだろうか。
助け起こされながら、礼を言った。
「もう、大丈夫です。どうもありがとうございます。」
「いいえ、では、お気をつけて。」
額には、瘤が出来ているようだった。
植え込みや路地裏を覗き込み、飛んでいったマスクを探したが、どこにも見当たらない。
街中に不衛生ゴミを落としてしまった罪悪感を覚えつつ、仕方がないので、ハンカチで口を押えて、近くのコンビニに入った。
三枚入りマスクを手に取り、レジに差出し、レジの店員をちらりと見やって、びっくりして、もう一度見た。
店員は、ワニの着ぐるみだった。
「ありがとうございました。」
差し出されたマスクを受け取って、一礼して、コンビニを出た。
よく見ると、コンビニの前の商店街の雑踏には、半数以上、着ぐるみが混ざっている。
電光掲示板では、ネコの着ぐるみが、風光明媚な崖で夕陽に照らされながら、遠くを見つめているムービーが流れている。
屋外に向けて飾られている雑誌の表紙は、ダンベルを持ったヒヨコ、サングラスをかけたオランウータン、洗いざらしの白いシャツを着たチーターだった。
会社に戻ると、恐れていた通り、会社の半分が着ぐるみだった。
部長に、体調が頗る悪いという真実を伝えて、すぐさま早退した。
会社を出たその足で、駅前の商店街の奥に広がる、繁華街に向かう。
雑居ビルの上の、馴染みのバーに駆け込むと、オカメインコの着ぐるみが、フロアをモップで掃除していた。
「えええ。Mさんじゃない。どうしたの、急に。困りますよ、こんな昼間に。お店はやっていませんよ。」
「違うんです。違うんです。さっき、思いっきり、頭を打って、おかしくなったのかもしれない。助けて、助けてほしいんですよ。」
カウンターの隅で、瓶ビールを開けて一人で呷りながら、バーテンダーに話を聴いたところ、この世界では、キグルミは、美の象徴だということだった。
キグルミが芸術的な写真に撮られ、ショウとして歌い踊る。
社会の華やかな飾りとして、キグルミに個性と創意工夫を凝らす習慣になっている。
キグルミは、崇拝者や讃美者から、美しいと褒め称えられる。
キグルミは至上の美、この世の宝石。
若者たちはこぞってキグルミの流行を作り出し、富裕層の大人はキグルミに巨額を投じる。
「なるほどなあ。でも、じゃあ、そんなに流行っているなら、なんで、私はキグルミ着ていないの。」
オカメインコは吹き出した。
「なに、言ってるんですか。うちのバーでも急先鋒の、アンチ・キグルミ論者じゃないですか。ふわふわ~、もふもふ~ってモフハラする人間を、いつも嫌っているじゃないですか。」
「もふはら・・・。」
「そうですよ。その子たちは、軽いキグルミじゃないのよ!って。」
つけっぱなしになっている、昼間のテレビでは、イルカとクマと人間と人間が、街歩きレポートをしていた。
それに、強い、違和感を覚える。
なぜ私は、一体全体何に、こんなにも違和感を感じているのだろう。
キグルミの、いかにも縫いぐるみらしい、戯画的な、三等身が絵にならないのだろうか。
ファンシーな縫いぐるみが日常に溶け込んでいるのが、シュールで、キッチュで、ホラー映画に出てくる子供の怪物を見るような、物悲しい気分になるのだろうか。
ただ単純に、見慣れていないから。
慣れていない、ただ、それだけなのだろうか。
私は恐怖に耐えられなくなって、走り出し、バーの階段から転げ落ちた。
そして、目を覚ました時には、街からキグルミは消えていた。
だがしかし、あの、強烈な違和感だけは、今でも、頭に残っている。
あれは一睡の悪夢、長い白昼夢だったのかもしれないが、同じような違和感を持つ人間が、いつかネットで検索を掛けるかもしれない。
だから、こうして、重いキグルミ体験を、ブログに書き残すことにしたのだ。
キグルミは、軽くない。
もし、渦中にいるあなたがこれを読んだのなら、
どうか、最後まで希望を、捨てないで欲しい。
(終)
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映画「軽い男じゃないのよ」2018年
ジェンダー問題がテーマの映画なので、
四角四面の正論を真面目に打たれたり、
どこかで見たようなモチーフだったりしたら、
退屈だなあ、気まずいなあ、どうしようかなあ、と思って見始めたら、
己の固定観念が、ガチガチに固まっていることを、五分に一回、ドアを強くノックされる感覚で、何度も確かめさせられました。
自分の違和感と不快感と価値観が、何で出来ているのか、
遠心分離機で揺さぶられて、成分検査に掛けられるような作品です。
女が強い社会の場合、当たり前ですが、
喧嘩も闘争本能も剥き出しで身体を鍛え、割れた腹や胸を見せることはパワーの象徴ですし、
日常的に強さのインフレを起こせば、より強い刺激を求めて酒とギャンブルも常習しますし、
陣痛で手を差し出されたら、馬鹿にすんな!と払いのけ、出産は立ったまま行う勇者の通過儀礼になるのです、
そうですよね、
当たり前ですよね。
「これ」が当たり前だ、当たり前過ぎて見えにくくなっているけれど、光を反転すると、「これ」が蔓延っていることがよく分かる。
でも「これ」はやっぱり、誰がやっても嫌なものだ。
人類が21世紀もかけて、「これ」はどんな人間でも嫌なものだ、生命や気力や尊厳を損なうものだ、と気づいた知恵を、どうにか自分事にして、忘れないで、手元に置きたい。
決して、自分が「これ」を、他人に行使しないようにするために。
コトとヒト、そしてジブンを切り離して考えられるのは、論理的な思考の力である。
見ている現実のなかの見えないものを浮かび上がらせるのは、フィクションの力である。
私は、このジャンルに限らず、いつか、こういう仕掛けを書きとれるようになりたいし、見えているものと見えていないものを複合的に観られるようになりたいと思う。
最後まで読んでくださって、ありがとうございます。