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【掌編小説】汚れちまったぴえんみに
ある高校の昼休みに、関係省庁の重役である視察官が、校内を巡回していた。この高校は中退率が高いと、県の教育課の担当者が報告していた。
視察官は、大広間の片隅で本を読んでいる生徒に眼を留めた。
「へえ。本読んでるんだ。何読んでるの。」
視察官は、生徒をじろじろと遠慮なく見た。
生徒はむっとした顔をして、黙って席を立った。
視察官の後ろに控えていた教師が謝罪をする。
「態度が悪くてすみませんね。」
「いや、構いませんよ。」
視察官は大人物らしい鷹揚な態度を見せた。
続いて、見慣れない大人の集団にちらちらと好奇心のある眼差しを向けていた生徒二人に声を掛けた。
「どう、元気にしている。勉強は好き。」
子供とも友達付き合いが出来る、明るい大人という口調だった。
「えー。嫌いー。」
「嫌いか。何が嫌い。」
「えー。数学とか。」
「そうか、数学か。難しいか。ぴえんか。」
「あはは。うん。数学ぴえんて感じ。」
「数学ぴえんだよなあ。やばみだよなあ。」
「やばみ。あはは。うける。」
はにかんで、もじもじしながら、生徒達は屈託なく答えていた。
同じ日に、視察官は、別の高校の視察もした。
担当者は、ここは進学率が高い学校だと説明をした。
先ほどと同じように、教師や関係者の集団を後ろに従えながら、
視察官が校内を巡回し始める。
廊下で、集団に会釈をして通り過ぎようとした生徒に声を掛けた。
「こんにちは。あなたの将来の夢は何ですか。」
「そうですね。海外で建築の仕事をしたいと思っています。」
「ほう、それは素晴らしい、頑張ってくださいね。」
視察官は柔和に微笑んで、生徒と握手をした。
視察官の後ろの集団では、同行した省庁の職員の一人が、口の中でもごもごと何かを呟いていた。
隣の同僚が聞き留め、職員の服の裾を引くと、行列から少し離れて、小声で窘めた。
「ちょっと、さっきから、なにもごもご言ってるの。お偉いさんに聞こえるよ。」
同僚の耳元に顔を寄せながら、小声で職員は言った。
「ぴえん。」
「はあ。」
同僚が素っ頓狂な声を上げる。
その声が思いのほか大きく、ちらりと視察団の一人がこちらを見たが、また直ぐに集団の輪の中心に向き直った。
朗らかな談笑が聞こえてくる。
「やばみ。ぴえん。やばみ。ぴえん。」
壊れたスピーカーのように職員は繰り返した。
「ちょっと。」
職員の奇行に、同僚はいよいよ眉を顰めた。
職員は真顔になり、同僚を真っ直ぐに見つめた。
「ちょっとはこっちの台詞だよ。黙って見てれば、偏差値で態度ころころ変えやがってあんチクショウ。教育関係者なら人間を見てよ、人間を。」
職員はそう言い放った。
同僚の顔が青褪める。
職員の悪態が聴こえたのではないかと、慌てて視察団を見たが、廊下のずっと先で、野球好きの視察官が、高校球児たちと盛り上がっているのを見て、ほっと胸を撫でおろす。
「お願いだから、そういうの、帰ってから聞くから、静かにしてくれる。」
更に皺を寄せて眉を顰め、同僚が鋭く言う。
「分かってるよ。分かってる。ごめん。」
職員の眼が潤んでいるのを見て、同僚が、深い溜息を吐く。
「うん。・・・まあ、確かにちょっと思ったよ。おもてなしで、合わせてくれてたよね、あの子達。」
「うん・・・。視察の態度も、そうなんだけど。
流行り言葉一つで、バカみたいかもしれないけど。
よりにもよって、一番、悔しい言葉なんだよ。
辛いを辛いと、やばいをやばいと、感情を真剣に正直に言いにくいから、丸みをつけて、断定を避けて、風味化したのが、つらみ、やばみ、なんじゃないの。
哀しくて重苦しいことを、言わせてもらえない空気ゆえの、軽量化が、ぴえん、なんじゃないの。」
「ああ・・・、一理あるかもね。子供は空気に敏感だから。言葉を崩して、空気を軽くしている可能性は、あるかもね。」
「言葉を崩して、現実と折り合うのは、若者の特権じゃん。
大人はさ、大人なら、それを生み出す社会的背景を考えて欲しいよ。
ましてや、教育に携わる大人なら、なおさらだよ。」
「ははは。めんどくせーなー、本当に、めんどくせーよ、お前は。」
言葉とは裏腹に、同僚の声は温かかった。
「ごめん・・・。」
職員は仏頂面のまま、小さく呟いた。
「まあ、分かる。少なくとも、私には分かるよ・・・。
お前とは十年の付き合いだからな。
でも、まあ、今は抑えろよ。
大人なんだろ。
ここは国語の学会じゃないし、差別撤廃班でもないんだから。
まあ、そう、重苦しく考えなさんな。」
同僚は、職員の背中をポンポンと叩いた。
職員がコクコクと何度も頷くと、同僚はまた深い溜息を吐いて、歩き始めた。
職員は胸に手を当てて、二度、三度と、深呼吸をした。
「なにのぞむなくねがふなく、いたいたしくもおじけづき、けだいのうちに・・・。なにをかなさんと日を暮らす。」
「何をか成さんと日を暮らす。」
もう一度、そう呟くと、職員は、同僚の後を小走りで追いかけていった。
視察が無事に終わり、県の担当者が、淡々と終了の言葉を述べた。
「大変申し訳ございません、わたくし、資料を読み間違えておりました。
進学率と中退率があべこべでした。
まあ、人間、初対面の印象が八割といいますし、大事ないかと思われますが。
大変申し訳ありませんでした。」
視察官以外の同行者は一斉に噴き出し、忍び笑いを噛み殺した。
(終)
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【原典】
汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる
汚れつちまつた悲しみは
たとへば狐の革裘(かはごろも)
汚れつちまつた悲しみは
小雪のかかつてちぢこまる
汚れつちまつた悲しみは
なにのぞむなくねがふなく
汚れつちまつた悲しみは
倦怠(けだい)のうちに死を夢む
汚れつちまつた悲しみに
いたいたしくも怖気(おぢけ)づき
汚れつちまつた悲しみに
なすところもなく日は暮れる……
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