m-1の2021
mー1の2021について。
〇モグライダー
めちゃくちゃ面白かった。漫才も会話劇という劇の一種だと考えられるので、ストーリーがあると見やすくなるものです。『チャレンジ』要素があることでストーリーになっている。
チャレンジになっている以上、成功or失敗の判定が発生するわけですが、その失敗判定が歌になっているのも超好きだった。
あのネタは、イントロを歌い終わった時点で芝さんが美川憲一を辞めて、「ダメ!」とか「ブッブー」とかいって判定する作り方だってありえた。
国語の授業で隠喩だとか暗喩っていう言葉を勉強した記憶があるんですが、歌が「ブッブー」の隠喩になっているっていう事が面白いのかもしれない。
モグライダーのお二人はこういう、「成功・失敗判定が別の何かに代理されている」というネタを結構作っておられて、どれも面白い。すごい発明だと思う。
ゲームセンターにそういうゲームがある、という状況を想像してみる。「時間内に適切な行動をしないと、美川憲一が登場してしまう」と言ったような。もしそういうゲームがあるとしたら、失敗を告げる美川憲一さんの顔は怒ってたり泣いてたりするのだろうか。
……という想像を経由すると、芝さんは「いいえ私は」のタイミングで怒り顔だったり泣き顔をしていてもいいのかもしれない、と思ったが、すでに十分面白いし、変に芝さんがともしげさんの世界観に寄っていく感じにもなるので(芝さんはあくまで、いやいや協力してあげてるだけなので)いらんことはしないほうがいいのかもしれない。
ついでに言うと「プゥン」というベースのイントロが、「再チャレンジ」の代理にもなっている。ともしげさんがどんな状態になっていようと再チャレンジに持っていける。
〇ランジャタイ
「欽ちゃんの仮装大賞」や「PK」のネタのイメージが強かったのか、もっと振りかぶってボケてるイメージを持っていたんですが、今回見てみたらそんなことはなかった。
振りかぶっているボケ、というのは、例えばPKのネタで
国崎「とととととん、ピシャー!」
伊藤「あれ? 何?」
国崎「カマキリ!」
こんな感じで違和感をお客さんに対して与えたうえで(フリを入れておいて)『違和感の正体を明かすことでボケる』っていう展開のネタが多いイメージだった。
でも2021年m-1の決勝のネタはあんまりそういう仕組みでボケを入れてなかった。
基本、当然、ボケというのは振りかぶるほど(ウケやすくもなりますが)滑りやすくなります。
m-1では最序盤に
伊藤「何?」
国崎「猫が」
というやりとり以外、全然振りかぶってなかった。
ボケ続けることによって話を進めている。
相変わらず脈絡は無に等しいのに、マイムとテンションの力でそれなりに必然性がある展開に見える。とんでもない表現力ですね。
国崎さんがマイムとリアクションで事件を起こして、その状況を伊藤さんが言葉で説明しつつ驚く、という順番で進行している。そのことで、ネタが全体的に滑りにくくできているように見えました。
もしかしたらM-1にアジャストしたのかな。だとしたらどうやって調整したのだろう。興味深すぎる。謎すぎる。
このネタ、調整ってしてるのかな。
そもそも国崎さんにとって、このネタの話題って「風が強い日に顔にへばりついた猫を、あなたは飼いますか?」なんですよね。
このネタは、他のコンビでいうところの「一日市長がやってみたい」「ワニに生まれ変わりたい」「今度合コンに行くから練習したい」に相当する部分が存在しない。
未来に行う行動の練習としてコントに入っているわけではない。過去の経験の再現としてコントに入っているわけでもない。
国崎さんは伊藤さんや客に了解を得ることなく、個人的にコントに入っている。
国崎さんの問い伊藤さんが「飼わないよ!」と言って以降、猫が耳に入ったり将棋ロボになったりっていうやりとりは一体なんだったのだろうか。
人間と人間が行う『会話』という行為の中の、どの部分をやっているのだろうか。そんな部分、存在するのだろうか?
伊藤さんはなぜそこに突っ込まないだろうか?
凡百の芸人や作家ならそこの整合性は欲しくなると思う。『調整』という行為をするのであればこういう部分って整理するもんなんじゃないの?
PKのネタは過去の経験談としてコントインしている。仮装大賞のネタは未来のための予行演習としている。僕も全部見たわけじゃないんですが、ほかのランジャタイのネタでは、風猫のネタのような謎の未整理は見られない。
え?
じゃあM-1用にアジャストして未整理にしたってこと? 意味わからなくないですか?
伊藤さんが「飼わない」と言って以降の時間はなんだったんだろうか。
僕にとっての位置づけが分からないことを嘆いているのではない。
この言語の世界のどこにもそんなものの位置づけが存在しないことが恐ろしい。ランジャタイのお二人にとっての位置づけが分からないことが恐ろしい。
〇イリュージョン
訂正
— 志らく (@shiraku666) December 20, 2021
ランジャタイ、ジャルジャル、トムブラウン、金属バッド、ザコシ&コウメ太夫らでIR GP、つまりイリュージョングランプリを開催したら面白い。ぶっ飛んだ、時代を先に見た漫才、コントの大会。落語家で入れる若手はいないな。私が若ければ絶対に出場した。
志らく師匠がランジャタイをいたく気に入っていらっしゃる。
ランジャタイのお二人とご一緒した機会は少ないのですが過去にご一緒させていただいた経験のあるスタッフとしては、志らく師匠がランジャタイのお二人を褒めているのはとても嬉しい。
もちろん志らく師匠ご本人はきっと、談志師匠が語ったイリュージョンの概念をM-1視聴者に伝えられる大事な機会という事でツイートをされている。なので僕みたいなもんが簡単に喜んでていいような事ではなく、もっと真剣に読み取らないといけないのでしょうけど。
昔、伊集院光さんのラジオに、立川談志師匠がゲストで出た際に、イリュージョンについて語っておられた。伊集院光さんもいろいろと解説してくださっていた。
・幼い頃は、鳥も熊も蟻も一緒みたいに絵を描く。
・大人になるとそれらを描き分けるようになる。
・通常は、大人のように描き分けることを正常という。(例えば老化などで)描き分けられなくなると、ボケているということになる。
しかし、これが異常なんだそう。
・常識とか学習は不自然。本来は幼い頃のように鳥も熊も蟻も一緒みたいに絵を描くのが自然。
という事だそうです。
なるほど。よくわからないけど、猫が耳から入って将棋ロボにされちゃうのはきっと自然だったんだ。
位置がない会話の時間こそ、自然な現実の時間だったのだろう。
言葉や動作の意味に意味などない。中にはただ衝撃と空間があるだけだ。意味を意味として理解した瞬間、衝撃は衰え空間は萎んでしまう。
このラジオ番組で話されていた「談志・円鏡 歌謡合戦」的な、飛躍した言葉同士の組み合わせについては、過去に自分がこの記事の「漫才「趣味」」の項目の部分で考えていた事を連想させられた。『イリュージョン』という角度から何か企画やコーナーが着想できたらいいなあ。頑張ります。
ちなみに、スパイクシンフォニーという漫才コンビがいるんですけど、個人的には彼らの漫才も一種のイリュージョンなのではないかと勝手に思ってます。両者とも滑舌が極めて悪い上に挙動不審なので、何をやっているのかがさっぱり分からない。追えば追うほど意味が逃げていくような漫才をしている。めちゃくちゃ面白い。ちょっとずつ上達してきてしまっているので、もし興味がある人は早いうちに見ておいてください。そういえばスパイクシンフォニーに台本を提供したかったんですけど、ずっとお願いするのを忘れてる。
〇ロングコートダディ
めちゃくちゃ面白かった。
ロングコートダディも「法則がある」「二文字タイム!」などでチャレンジ性を演出していた。凄い構成ですね。RPGのごとく、その時その時で目的が与えられて徐々にクリアしていく仕組み。モグライダーのネタが、ファミコンの初期のゲームだとしたら、ロングコートダディのお二人のネタはスクエニがちゃんと作ったRPGみたい。
〇センターマイク
ロングコートダディがマイクの前で終わらなかったことで低く評価されていました。
なんとなく、『武道場に足を踏み入れる時に一礼しないといけない』『美術館で口にモノをいれてはいけない』みたいな、ある種のマナーに通じるような気もするので、審査員の方がそのように判断されるなら、その価値観は支持したいなとは思います。
一方で、「じゃあマヂカルラブリーはどうなんだ」みたいな意見も見かけました。飛び火で漫才じゃない論争が少し再燃していた。(個人的には、論争というよりは「みんなが思い思いの気持ちを発言できる、ツイッターっていう便利ツールがあってよかったね」っていうだけのことだと思ってますが)
例えばですが、センターマイクからの距離は「お客さんに伝えようとする意志」を象徴する、という見方ができるのかもしれません。
ウーマンラッシュアワーの村本さんがマイクを独占してしまうのは、「自分の発言だけをお客さんに伝えたい」というエゴイスティックな姿勢の表明に見えます。
この観点でいうと、野田さんはお客さんに対して働きかけるつもりが全くないのでセンターマイクの近くにいない。
村上さんは村上さんで、お客さんに働きかけている余裕がないので、センターマイクの近くにはいるがお客さんに対して話しかけてなんていられない。
この点でいうとマヂカルラブリーのお二人の漫才はある意味でセンターマイクを有効活用しているように見える。
さてでは、ロングコートダディの漫才がマイクを有効に使えていたかというと、どうなんでしょうか。
場所ごとの役割でいうと、マイクの位置が天界の入り口、現世とあの世の境目になっている。チャレンジのスタート地点になっている。
舞台下手が生命の振り分け担当、上手奥が説明担当と天界からの出口、上手手前が現世となって輪廻が一巡している。
兎さんはチャレンジのスタート地点でだけ『意気込み』を発言する事ができるし、能動的でいられるのもこの場所だけ。兎さんが観客を見るのもこのマイク前だけ。ほかの場所では受動的に状況に流される。
どうなんでしょうね。考えてみましたけど、ユニークなマイクの使い方だなーと感心こそするものの、マイクが使えていないとは全然思えなかった。
マイクから離れずにこのネタをやると、堂前さんとの距離感や、兎さんの能動・受動の切り替えの点で印象が全然違いそう。
オチだけマイク前に戻ってればよい話であって、ネタの中身までマイク付近でやるものである必要はないような気がしてしまった。難しいですね。
〇ハライチ
岩井さんの性格の鋭さが出てるような気がして面白かったです。
切り口としては、「人のやることには文句をいうけど自分が文句を言われたら幼児になっちゃう奴っているよね」というネタだと受け取った。もし仮にここが出発点だとして。
もしかまいたちのお二人がこの切り口でネタを作ったら、山内さんが隙だらけの論法で浜家さんを論破しようとするネタになるかもしれない。オズワルドだったら話の通じない人間の不気味さを起点に話を展開させていたかもしれない(実際、オズワルドの2本目と、ちょっとだけテーマが通底していると思う)。
岩井さんはもう、そんなことはしない。
幼児的な大人には一切の理がないと、断じる。
そんなやつは掘り下げる必要もない。ただただ切断処理をしたい。
何度も切断したい。
M-1の打ち上げ動画で「敗者復活に車できたのは自分くらい」と発言するように、いくつかの場面で、メディアの序列や経済的な場面で優位であることを隠さない。きょうび、そういうは隠した方が得だと誰でもしっている。隠した方が得だという安易な損得勘定やストーリーに堕しない。
否定したがる人間にも理があるんだというような、あるいは不気味さという価値があるんだというようなぬるいストーリーもきっぱり切り捨てる。
凄い人だなあ。
〇敗者復活
ヨネダ2000のお二人はちゃめちゃに面白かったですね。
どうやって思いついたんだろう。
無理やり一般化したら、たぶん、バカリズムさんのひらがなのネタみたいなことだと思うんですけど。
例えば、面白いかは別にして、「こんな自動車販売店は嫌だ」みたいなお題があったとして、「オープンカーのカタログに車幅:1.7m、車高:1.3m、靴として:137.5」みたいな。モノの特徴から本質を外して形状だけを取り出すような理屈だと思うんですけど。
100歩ゆずってそこまでは思いつくとして、その先が凄すぎて言葉もない。
ハモりも見事です。歌ネタとしても面白すぎる。リズムという現象が持っている、人間にとって根源的な喜びも自在に操る。
ドスコイのほうはチャレンジ系のネタとして見ても面白いし、『成功・失敗を分けるなぞの根拠があるっぽい』という仕組みもヴィジュアルバムのマイクロフィルムを思い出す。
僕はすでに価値観ごと古いのかもしれない。その全容を測ろうとして、持っているすべての計器を総動員しても、群盲が象を評すようだ。ヨネダ2000を測るあらゆる計測用スカウターが爆発してしまうだけなのかもしれない。
鬼のように強い渡辺明先生や豊島将之先生をなで斬りに倒した藤井聡太竜王を想起する。大局観の次元が違う。
彼女らは僕などに理解できる基準でやっていないのかもしれない。僕が持ってる定規の基準はとっくに全部クリアした次元で、まったく異なる大局観(=定規)で戦っているのかもしれない。僕は定規コレクターを身の上だと思ってプライドを持ってきた。なぜなら、センスが1mmもないからだ。僕は人生において、自分以外の誰ともお笑いにおけるセンスを共有できなかった。なので理論と再現性だけで作家としてやってきた。これまで一緒にやってきた演者とセンスを共有できた記憶は一度もない。見てもらった観客にウケたとして、共振したと思えたこともない。僕は僕でたまたま面白かった場合もあり、客は客でたまたま笑ってくれた場合もあった。その両方を同時に実現するには、とにかく定規をコレクションするしかなかった。成功した戦いもあれば失敗した戦いもあり、つどつどで定規を新しくしたり、新しい定規を仕入れたりしてきた。センターマイクの扱い方も定規。イリュージョンも定規。優美な死骸も定規。僕は万国びっくり定規博覧人間だ。お笑い用の定規を小説にも音楽にも映画にも求めて、とにかく普遍性と再現性をと一途にコレクションしてきた。
しかし、令和の時代の新人たるヨネダ2000や、あるいはその他のこれからの若手の方々は、僕など圧倒的に置き去りにするかのように「学習で手に入れられる程度の定規」などとっくに手元にあるのかもしれない。
しかも才能のある身にしてみれば、当然あるものであって、手元にない人間のことなど想像の埒外なのかもしれない。
やっとちゃんと面白い時代になるのかもしれない。もしくは僕にとって地獄のように詰まらない時代なのか。いずれにせよ僕は相変わらず、バカの一つ覚えで、『お笑いはちゃんと素敵』と主張し続けていこうと思う。
以下はおまけです。かっていただくようなことは書いていません。買わないでください。
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